2024年3月29日金曜日

大阪・関西万博会場で引火事故 工事の火花でガス爆発 けが人なし(毎日);「夢洲はごみや残土の処分場として埋め立てられた人工島で、地中にたまっていたガスに引火した可能性が高いという。」   

世耕弘成氏が一転「記憶にない」会合の「記録が出てきた」…でも裏金還流協議は否定 黒塗り日程表で潔白主張(東京) / 世耕弘成氏、22年3月会合出席認めるも「選挙の話」政倫審での否定発言「全く間違っていない」(日刊スポーツ)

 

4月にダブルで来る「年金減額」と「健康保険料アップ」が高齢者を直撃!(日刊ゲンダイ); 75歳以上の高齢者が支払う健康保険料が4月から上がります。対象は年金収入が年211万円を超える約540万人、75歳以上の約3割。そのうえ同月以降、年金の「実質支給額」は減額に…。

大杉栄とその時代年表(84) 1893(明治26)年5月23日~6月21日 徳富蘇峰の条約励行論 子規の瘧(おこり)発病 来るあてもない桃水からの手紙を待つ一葉 「著作まだならずして此月も一銭入金のめあてなし」(一葉)

 

徳富家家族写真 明治26年31歳

大杉栄とその時代年表(83) 1893(明治26)年4月25日~5月21日 東学党報恩集会 一葉(21)、頭痛に苦しむ 「蔵のうちにはるかくれ行ころもがえ」(一葉) 市川房枝生まれる 防穀令賠償問題妥結 戦時大本営条例公布  子規『獺祭書屋俳話』(処女出版) より続く

1893(明治26)年

5月23日

徳富蘇峰の「国民之友」、条約励行論提唱

日本人が真の平等を勝ち取るためには国民的な運動によって現行条約を「正当」に励行しなければならないと主張。さらに、現行条約の励行が外国人にとっても不合理であることを悟らせ、外国の側から条約改正を求められてこそ対等条約が実現するであろうと論じた。これは、この年2月15日に自由党が提出した条約改正上奏案が衆議院秘密会で審議され、内地雑居の是非が審議された結果、135対121で上奏案が可決採決されたことに対する「内地雑居尚早派」側の危機感を背景としていた。

改進党は、励行論での政府が「戦略上で上策」(攘夷論で幕府に迫ったのと同様)とみて、大井憲太郎の大日本協会、山県系の国民協会に対外硬による協力を呼びかけ、小会派も含め対外硬6派を形成。統一綱領は自主外交・責任内閣。ここに対外硬派対政府・自由党の「政界縦断」構造できる。

第4議会後、政府と自由党は接近するのに対し、他の政党は条約改正に反対する条約励行論を唱え、対外強硬論に傾斜。「国民協会」(会頭西郷従道・副会頭品川弥二郎)は、国粋主義の立場から条約改正に反対するが、政府と自由党の接近とともに、政府への反発を強める。また東洋自由党(自由党関東派を星に奪われた大井が、明治25年に脱党し主宰する小会派)も国民協会に歩調を合わせる。国民協会を中心とする5派は対外強硬論を唱え、大日本協会を結成、第5議会での政府攻撃に備えているところに、改進党がこれに合流し、反政府の対外硬6派が出現。改進党はもともと条約改正推進論で、大隈自身、外相として改正交渉にあたった事もあり、条約励行論は明らかに方針転換。

対外硬派は千島艦事件で結束を強める。ノルマントン号事件と同様、領事裁判権の不当性が改めて明らかにされ、上海での判決が大日本協会結成時期と重なり、対外強硬論はますます勢いづく。こうして、第5議会開会までに、対外硬6派による反政府、反自由党連合ができあがる。

条約励行論:

条約に明文規定のない事柄を一切許さなければ、外国人は不自由さに堪えられなくなって条約改正に応じるだろう。居留地外への旅行は事前許可が必要、不動産取得禁止は事実上野放し。背景には、攘夷思想の流れをくむ、非内地雑居論・内地雑居尚早論がある。

伊藤内閣が、自由党を準与党とする事で政界再編成となる。第4議会まで、自由党と共に議会内多数派を形成し、貴任内閣完成と内治優先を主張していた立憲改進党と立憲革新党は、同盟者を失い新たな提携者を求める。一方、吏党といわれ非内地雑居論に同情的な国民協会は、自由党に準与党の座を奪われ、反伊藤内閣的傾向を深める。三者は、自由党と伊藤内閣に反対する点で一致、強力に対外強硬論を主張する大日本協会を核に、条約励行実施と貿任内閣主義採用を統一綱領とする野党連合、対外硬派を結成。

5月23日

子規、漱石を訪問。

5月23日

一葉(21)、今日から日課を決める。

朝6時から7時まで習字、10時まで読書、12時まで執筆、昼食、食休み、午後は針仕事や洗濯、なければ執筆。夕方は自由時間。夜は思慮、思索、就寝。(雑記「やたらづけ」)

5月25日

浜田広介、誕生。

5月25日

西村釧之助が来訪。雑談をする。西村家は以前妹邦子との縁組を希望したが、うまく話が合わず断ったことからすっかり往来がなくなっていたが、また交流が出来た。人生において敵を作るということが心の負担になっていたので、解決したことは嬉しい。

妹邦子が内職(蟬表製造)を中止。

5月29日

一葉(21)、伊東夏子から借金8円。

伊東(田辺)夏子によれば、一葉を訪問すると鰻をふるまわれ、帰るとすぐに追いかけるように手紙で借金を申しこまれた人もあったという(田辺夏子「一葉の憶ひ出」昭和25)。


6月

坪内逍遙「小羊漫言」(有斐閣)

6月1日

子規、漱石を訪問。

6月2日

大阪商船会社、朝鮮沿岸航路の営業開始。

6月2日

中島歌子の母の没後一周年祭。一葉参加。集まったもの5名で内輪の会合。夜までいて帰宅。伊東夏子から借りた「読売新聞」を12時ころまで読む。

6月4日

漱石、子規宅を訪問

6月4日

一葉(21)、三宅花圃を訪ねる。結婚後の彼女を「ひたすら家事に身を委ねて、世上の事、文事の事、何事も耳に入らずとて、極めて冷やかに成給へり。と批評す

6月6日

寺島宗則(61)、没。

6月8日

夜 子規は突然発病。数日間「瘧(おこり)」に苦しむ。20日以後出社したが、26日にまた瘧を発し、連日悩まされる。

30日、日記に「瘧落」とあって「瘧落ちて足ふみのばす蚊帳かな」の句を書く。ようやく回復した模様。この月は「時事俳評」を掲げた外は、何も『日本』に筆を執っていない。

「瘧」;

数日の間隔を置いて周期的に悪寒、発熱などの症状を繰り返す熱病。その重い症例の多くはマラリアによるものである。戦中までしばしば3日熱マラリアの流行があったが、1950年代には完全に撲滅された。"

6月10日

ケーベル、帝国大学文科大学講師に就任。西洋哲学・古典文学・ドイツ文学を講じる。

6月10日

この日付け日記。桃水からの来るあてもない手紙を待ち焦がれる。


「何故にまつらむとも覚えず。又まちぬべきあてどのあるにあらず。開て嬉しきたよりか、聞かずしてかへりて幸ふかくなるか。何方にも何方にもおもひたどられず。門をはしる郵便脚夫の哀れ我家に寄れかし。かの人のたよりなれかし。一人は空しくすぎぬとも、此つぐなるこそはと、まどによりてしばしば待つ。はかなく過ぬるもにくく、となりに入ぬるもにくし。門札しばしばながめて、あらずとて行過たる、いよいよにきし。」(日記)


「わすれぐさなどつまざらんすみよしのまつかひあらむものならなくに」

(忘れ草をどうして摘まないことがあろうか。(いや、摘んでわすれてしまおう)、住吉の松の(「まつ」ではないが)、「待つ」甲斐あるものでもないのだから)


「もろともにしなばしなんといのるかなあらむかぎりは恋しきものを」

(一緒に死んでしまおうと祈ることだ。生きてる限りは恋しい(想いから逃れられない)のだから)


明治25年6月に桃水との決別を決意して以降、完全な絶交には至らず細々と交流が続いていたが、以前のように自在に会える間柄ではなくなっていた。それから一年経って、一葉の日記の恋歌は「わすれ」「まつかひ」なし、という諦念を見せる。一方、「もろともにしなばしなん」ことまで想定し、「見るもうし見ざるもつらし」という詞書とともに過去の詠歌を一部変えた歌を重出させ、悟りきれない心とともにループに入ったようである。日記中、桃水への恋心を詠む和歌はここで途絶える

6月12日

山本長五郎(清水次郎長)、没。

6月12日

早朝、星野天知から「文学界」へ載せる原稿の催促の便り。断りの葉書を出す。

6月14日

大石正巳朝鮮公使が帰朝。新橋駅に出迎える人びとの歓迎の声が万雷の鳴り響くようである。

6月19日

子規(10日間ほど病臥していた)、散髪してのち漱石を訪問、豊国楼に行く。

6月21日

ベルリン駐在武官福島安正、乗馬でロシア、シベリア経由して1年4ヶ月かけて帰国。長崎着。

6月21日

この日付の日記。3月から制作にかかった「ひとつの松」も成稿に至らず。

「著作まだならずして此月も一銭入金のめあてなし」(「日記」明26・6・21)。

金港堂(藤本藤蔭)の原稿料支払いは確実だったが、『都の花』は廃刊になりつつある。一葉は、その後どう生計を立てるのか考えねばならない。"


つづく

既に防衛費の半分を占める「兵器ローン」 ますます借金しやすくする法が成立、防衛費全体が膨れ上がる恐れ(東京); 防衛予算はすでに、過去の武器購入のローン払いなどに圧迫されている。24年度予算の防衛費7兆9496億円のうち、3兆9480億円は過去のローン契約の支払いで、比率は約49%に上る。ローン支払いを除いた残りの半分以上は、減らしにくい人件費や糧食費に充てられ、硬直的な予算構造となっている。    

2024年3月28日木曜日

異例の規模の日銀リーク、真剣な調査を-リーディー&モス(Bloomberg);「日銀の決定事項の多くがなぜ事前に知られているかについて国会で調査し、岸田文雄首相が何らかの回答を求める時だ。日銀の行動で数十億ドルの資金が動く。日経新聞や時事通信、NHKの記者が事前に知らされていたとしたら、他に誰が知っているのだろうか。悪用される可能性は計り知れない。」  

 

辻元清美議員「政倫審も茶番だったんですかね総理が再調査しなきゃいけないくらい。総理や自民党の言う事は全く信じられなくなってる。派閥の解散の話しから始まった。二階派、安倍派、岸田派の派閥、政治団体の解散届けは出ていますか」 総務省「提出されておりません」

 

内部告発でしょ → 知事や職員を中傷する文書流布か 退職間際の兵庫県幹部、処分を検討(朝日) / 兵庫県幹部が知事を中傷する文書を配布 知事「うそ八百」と解任、退職認めず 報道機関や県警が入手(神戸新聞) / 「定年退職が近い県民局長が知事らを批判する文書を作成し、報道機関や議会などへ送っていたという。退職が目前なのに降格処分を覚悟しての確信犯的行動だろうが、むしろ局長にそこまでさせた兵庫県で何が起こっているかが気にかかる。— 吉富有治」

大杉栄とその時代年表(83) 1893(明治26)年4月25日~5月21日 東学党報恩集会 一葉(21)、頭痛に苦しむ 「蔵のうちにはるかくれ行ころもがえ」(一葉) 市川房枝生まれる 防穀令賠償問題妥結 戦時大本営条例公布  子規『獺祭書屋俳話』(処女出版)   

獺祭書屋俳話 全 正岡子規 獺祭書屋主人著 日本新聞社 初版
 
大杉栄とその時代年表(82) 1893(明治26)年4月1日~24日 あさ香社結成 徳富蘇峰の国家主義への傾斜 一葉(21)初めて伊勢屋に質入 政府機密費で通信社への助成開始 一葉、桃水を訪問 より続く

1893(明治26)年

4月25日

韓国、東学党報恩集会・忠清道報恩で東学2回目の集会。2万人。反侵略スローガン。政府、軍600派遣、解散。解散に際して提出された要請状を検討し、政府は2地方官を解任。参会者は平和的運動の限界を悟る。後、過激派(北接)と穏健派(南節)大分裂。

4月25日

一葉(21)、頭痛に苦しむ


「(四月)廿五日 早朝は晴れたる様なりしが、六時過るより空たゞくらく成に成て、雷雨昨夜にかはらず、しばしも戸を明がたし。・・・我れは文机に寄りて、とざまかうざまにものおもふほど、かしらのいとなやましきに、胸さへもたゞせまりにせまりてくるほしければ、ふすまかづきて打ふしたるまゝ、日くるゝもしらず、八時過るまで寐にけり。」(「蓬生日記」明26・4・25)

(二十五日。早朝は晴れていたようだが六時過ぎ頃から空はどんどん暗くなり、雷雨は昨夜にかわらないほどで、しばらくも戸を開けることが出来ない。・・・私は、机にもたれてあれこれ物思いをしていると頭痛が烈しくなり、雷雨の恐ろしさも何も耳に入らなくなった。私の魂が何処かへ誘われて行くのでしょうか。一時間ばかりは夢を見ているようでした。ふと目を覚ました時は、雨戸から漏れる日の光はあざやかになって、さしもの空も名残りなく晴れ渡っていました。午後からまた少し雨が降り出したが、まもなく風になった。頭がひどく痛く胸までもますます締めつけられるようで気が狂いそうなので、蒲団をかぶって寝てしまい、日が暮れたのも知らないのでした。八時過ぎまで寝てしまった。)

4月29日

一葉、桃水を訪ねる。


「・・・「又脳病におはしますよし、よくやしなひ給へよ。今君にして病ひおもからば、家の事をいかにせんとか覚(オボ)す。つとめて心のどかに、一日もはやく治せんことを覚せ。さはれ筆とるものゝならひ、此病ひなき人こそ少なかりけれ。我も昔しはいと健(スコヤ)かなりし身の、打つゞきて脳の病みつよく、此頃は少しおこたりし様なれど、いとなやましき也。今の病ひいゑなば、よし花はあらずともよし、何方(イヅク)の野山にもあくがれて、心かぎりなぐさまんとおもふぞかし。君にも籠居(タレコメ)のみにおはしまさで、新らしき風に当らせ給ふぞよき」とさとし給ふ。・・・」(「日記断片その二」)。


「・・・「あなたは頭痛がおありだとのこと、充分養生なきって下さい。今あなたが重い病気になられたらお家の事はどうなるとお思いですか。努力して一日も早く治るようになさい。それにしても筆で身を立てる人の常として、この頭痛を持たない人は少ないのです。私も昔は頑健な体でしたが、いつも頭痛が烈しく、此頃は少しは治ったようですが、時にはまだひどく痛むのです。今のこの病気が治ったなら、たとえ花は過ぎていても、何処かの野山を歩き廻って、心の限り遊ぼうと思っているのです。あなたも家にばかり閉じこもっていないで新鮮な風に当たるのがよいのですよ」・・・」

4月30日

「文学界」第4号が届く


5月

北村透谷「内部生命論」(「文学界」)

5月

鴎外(31)、「しがらみ草紙」を「城南評論」に合併。

5月

改進党島田三郎、「凡そかくの如く学問もなければ、勇気もなく、愛国心もなく、而して身体が強くて従順であるこういう国は、・・・属国になるよりほかに仕方がない。・・・今日は区々の理屈をいう時ではない。・・・強く出た以上はどこまでも強く出る」ことを政府に要求。

5月

海軍軍令部条例、制定。対清戦争準備。

5月

高野房太郎(24)、ワシントン州タコマ在住。

5月1日

夜、稲葉鉱が衣類を貰いに一葉を来訪。妹邦子の浴衣をやる。

5月1日

シカゴ、コロンブス記念万国博覧会。~10/3。高村光太郎「老猿」出品。

5月2日

子規、漱石を訪問、泊る。子規「時鳥江戸に旅寐の雨夜哉」(『獺祭書屋日記』)

5月2日

一葉、今月も手元不如意で、着物4枚羽織2枚を風呂敷に包み母と共に伊勢屋に行く。

「蔵のうちにはるかくれ行ころもがえ」

(春に着ていた着物が、長持ちではなく質屋におさめられていって、春が質屋にかくれてゆく。そんな貧しい我が家の衣替えであることよ)

西鶴の句に「長持ちに春かくれ行くころもがへ」がある。

5月3日

朝、一葉に星野天知から便り。「文学界」5号に少し長いものを20日までに貰いたいとのこと。「都の花」の方もまだ書き終っていないので、来月ならと返事を出す。母が、昨日につづき伊勢屋に行く。

5月4日

夕方、一葉、西村釧之助に金を返しに行く。稲葉鉱が来訪。これから西村に借金に行くとのこと。

5月9日

子規、漱石を訪問。

5月12日

1843年イギリスに併合された南アフリカ・ナタール共和国、再び完全自治権獲得。

5月15日

横浜正金銀行、上海の黄浦灘路31号に出張所を設立。

1890年ドイツの徳華銀行(黄浦灘路14号)、1896年ロシア華道勝銀行(黄浦灘路15号、主要株主はフランスの金融家)、1899年フランス東方匯理銀行(黄浦灘路29号)、同年日本台湾銀行(黄浦灘路16号)、1902年ベルギー華比銀行(黄浦灘路20号)、同年米国花旗銀行(九江路A字1号)、1903年オランダ銀行(黄浦灘路21号)などが進出。黄浦灘路一帯はこ外国銀行集中区となる。これらの銀行は資本輸出の職能を実施。列強諸国は独自の紙幣を発行し、中国の対外貿易及び国際為替を独占、また、金融及び清朝政府の貸付金を操作する事で政治権を掌握し、金融界を分断。上海租界内の黄浦灘路は名実ともに「ウォール街」となる(列強の中国侵略の橋頭堡「ウォール街」)。

5月15日

市川房枝、誕生。愛知県中島郡明地村字藤吉(現、尾西市)。男3人女4人の3女。

5月15日

一葉の母たきの誕生日。「こゝろうき人々なれども」兄虎之助と姉久保木ふじを呼ぶ。兄からは土産を貰う。夕暮少し前まで遊ぶ。

5月19日

韓国、防穀令賠償問題、4年ぶりに妥結。韓国より賠償金11万円支払い

賠償交渉、難航し、この月、駐朝公使大石正巳が最後通牒を発するまでに緊張。伊藤首相は、李鴻章に斡旋を依頼、指令を受けた袁世凱が韓国政府に賠償金支払いを受諾させる。清国の韓国における指導的立場を利用。

大石公使(自由党から抜擢)は、外交官としての習慣・儀礼を無視し、景福宮の奥深くまで輿を乗り入れるなど王室に対する非礼な行為を重ね、列国外交団の顰蹙をかう。

日本は、韓国で領事裁判権・日本貨幣流通権など多くの不平等特権を保持し、釜山・仁川・元山などの戦略要点に特別居留地(専管租界)を設定し、公使館保護名目により駐兵権を獲得。これら特権と地理的近接性を利用して、米・大豆などの穀物や金地金を収奪し、その代りにイギリス製綿製品の中継輸出を行う(米綿交換体制)が、清国が旧来の宗主権を近代的な保護属領体制に再編するににつれて困難となってくる。政治的条件により日本商人より相対的に有利な清国商人は、上海からの直輸入で日本の仲継貿易を圧倒し、韓国政府も日本商人の穀物買占めに防穀令で対抗。韓国は将来の輸出市場として、現実の原料・食糧供給地として重要で、特に安価な韓国米は低米価・低質銀政策維持の為に不可欠で、政府は最後通牒をかけて防穀令賠償を求める。

清国は、韓国に対する伝統的宗主権を再編成し、政治・軍事・経済面の支配を強める。北洋大臣・直隷総督李鴻章は、部下の袁世凱をソウルに駐在させ、政治・経済への介入を命じ、韓国政府が独立の為にロシアやアメリカに接近することを監視。清国は旧来の宗主権を条約上の権利に変更し、それを最恵国条款による均霑の対象とする事を拒絶、また韓国を指導して列強と通商条約を結ばせ、韓国に列強利権を引き込み、日本の独占的支配を防ごうとする。この一連の措置により、列強は清国の宗主棒を承認し、韓国は列強の通商上の権益が入り組む「国際保険の十字路」となる。李鴻章は盛宜懐を通じ、イギリス資本を背景に電信事業を起し、招商局を創設し、海運・電信を支配。洋務派は、この勧告支配方式を北洋艦隊と淮軍で擁護。清国の支配は旧来の伝統的な華夷秩序に支えられて強力であり、日本が韓国を支配する為には、或いは清国とともに朝鮮の「共同保護主」となる為にも、清国の伝統的・政治的・経済的影響力を軍事力で破摧する必要がある。

5月19日

戦時大本営条例、公布(勅令52号)。この年2月7日、参謀総長から陸相に内議。

この間、川上操六参本次長は清国・韓国の兵要視察旅行を行い、日韓関係は防穀令事件を巡り緊迫。4月2日閣議は、日本の対韓国外交は「通常外交上ノ範囲ヲ遠出シタル情勢二立チ到り居候儀ヲ発見」し、5月17日閣議は、大石公使に対し「何時タリトモ国際公法上許ストコロノ(報復)手段ヲ強行スルノ自由ヲ有スル」と宣言し、ソウルから引揚げるよう訓令を与えることを決議し、韓国に「軍艦ヲ派遣シ、反報ノ手段ヲ取ルコトニ決意」。

防穀令事件が統帥部に出兵権独占を決意させる原因となる。最後通牒送付後のこの日、日本政府が李鴻章から受取った電報は、日本が出兵する、帝国も「朝鮮保護ノタメ直ニ兵ヲ送ラザルヲ得ザルべシ」、それには「英露モ加ハルベシ」、「然ルトキハ此小問題ニシテ朝鮮卜修好条約アル諸国トノ紛糾ヲ惹起スべシ」と強調。伊藤首相はこの電報により北洋艦隊の威力を想起し妥協。この事態は政府指導者が軟弱との印象を与える(「原敬日記」同日条)。

5月19日

一葉、夜、号外が届き、福島県吾妻山大爆発とのこと。今日から四畳半の座敷に移る。

恋に関する考察。〈恋は、自分の命を失うと分かっていても道を踏み外させる力を持つが、すべては自分の心から出たものであり、是非も善悪も元は一つである。〉

吾妻山噴火: 

噴気活動が1893年(明治26年)5月19日から活発になって,燕沢で水蒸気爆発し,噴石と火山灰を噴出させる。6月4日~8日には水蒸気爆発が強くなって,7日、調査中の技師ら2名が噴石に当たって死亡。11月9、10日に小規模水蒸気爆発し,翌年には一連の活動が終息する。"

5月20日

一葉の母たきが西村釧之助のところに借金に行くが、来客中なのでそのまま帰る。朝鮮防穀事件、山梨県の霜害、吾妻山爆発、狂水病(狂犬病)など時事問題に関心を持つ。

5月21日

子規『獺祭書屋俳話』刊行(処女出版)

明治25年6月以来、新聞『日本』に掲載した「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を「日本叢書」の一として日本新聞社から刊行。

5月21日

西村釧之助が心配して一葉を来訪。1円借りる。すぐに菊池隆直のもとに持参する。

夜遅く、頭痛と胸の苦しみに喘ぎ、人生の浮沈など人の世のはかなさに心が攻め立てられる。"

5月21日

シチリア社会党結成。


つづく

2024年3月27日水曜日

これが一本の醜悪な線でつながるんだね → 小林製薬の「紅麹」 → 「機能性表示食品制度」 → 安倍晋三(「アベノミクスの第3の矢 規制緩和による経済成長戦略」) → 森下竜一(「大阪ワクチン」で国から75億の補助金。アンジェス株の怪しい動き。吉村知事は「大阪ワクチン」を選挙利用。今は大阪万博総合プロデューサー) / 「機能性表示食品の研究レビューの作成、届出支援、臨床試験の相談など制度に対する支援業務をおこなう「日本抗加齢協会」では、森下氏が副理事長〜」          



 

「違法なことだから…」と“自白” 赤ベンツ不倫・広瀬めぐみ議員の「秘書給与詐取疑惑」 決定的な「証拠LINEメッセージ」「通話音声」を公開(デイリー新潮)

 

立憲民主党 杉尾ひでやさん 「これだけの事件を起こしてしかも相当多数の人が脱税の疑いまで持たれてるんですよ。こんな不祥事かつての自民党でもないんですよ。民間企業だったらトップは辞任しますよ。引責辞任。自民党ってのはそれだけ無責任な組織なんですか?」 / 岸田派の会計責任者が略式起訴されたり、脱法パーティをやっていた総理の責任を杉尾氏が追及。 「自分は処分しないんですか」       

 

小池百合子知事の「答弁拒否」巡り都議会で激論 「耳障りな質問は排除か」立民発言の撤回求める動議可決(東京);「小池知事は女帝となり、「与党」の都議は女帝にひれふす宦官のごときものとなったよう。行政の長が嫌がる質問を封じ込めるのは、議会の自己否定。— 山口二郎」