2017年9月23日土曜日

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一らの虐殺(その3) 暗殺の準備(甘粕麹町憲兵分隊長を兼任する) 軍法会議(10月8日~) 甘粕非難の声と減刑嘆願運動

■甘粕、麹町憲兵分隊長となる(大杉暗殺の準備)
甘粕は、大震災当日の9月1日、渋谷憲兵分隊長でありながら抜擢されて麹町憲兵分隊長との兼務を命じられた。麹町憲兵分隊は、東京憲兵隊本部直轄の近衛師団的存在で、規模も大きく、分隊長には佐官クラスが就くのが通例で、その分隊長に大尉の甘粕が就くのは、2分隊の隊長を兼任することを含め、前例のない人事。甘粕の前任の麹町憲兵分隊長は、後に東京憲兵隊長から少将になる持永浅治で、麹町憲兵分隊長当時は少佐(佐官)である。
人員配置では、東京憲兵隊本部の人員が補助憲兵を含め32名、麹町憲兵分隊の人員は補助憲兵を含め190名となっており、ライン部門の麹町憲兵分隊がスタッフ部門の東京憲兵隊の実働部隊の位置付けとなっている。他に、東宮御所・秩父宮邸を警護する赤坂分隊が36名、渋谷分隊が29名など。

「治安維持の最前線部隊を自任し、社会主義者や無政府主義者、さらには「不逞鮮人」らを何とか検挙しようと手ぐすねをひいていた東京憲兵隊にとって、帝都を揺るがした関東大震災下の戒厳令は彼らを一網打尽にする千載一遇のチャンスだった。
甘粕が”東京憲兵隊の近衛師団”といわれた麹町憲兵分隊のトップを兼務したこの前例のない人事異動は、無政府主義者の巨頭の大杉栄を明らかに視野に入れた、いうなれば”大杉シフト”だった。」(佐野)

甘粕は、名古屋の陸軍幼年学校から陸軍士官学校(24期)に進むが、陸軍戸山学校在学中の大正4年(1915)、膝関節を怪我する不慮の事故に遇い、念願の歩兵への道を諦め、憲兵になることを余儀なくされている。甘粕は千葉刑務所収監中に書いた獄中記で、「私は憲兵になった時もう靖国神社に祀られることがないのかと思ったら淋しい気がした」と記している。
甘粕は、朝鮮の京畿道楊州憲兵分隊長、市川憲兵分隊長を経て、大正11年1月、渋谷憲兵分隊長になっている。この渋谷憲兵分隊長時代に甘粕は朴烈事件を摘発している。
朴烈は、豊多摩郡富ヶ谷で内妻金子文子と同棲中の大正12年8月中旬、所轄の渋谷憲兵分隊に内偵され、これが半月後の大震災下での事前検束に繋がる。

甘粕は、朴烈が大杉と接触し大陰謀を企てているとの情報をつかんだという。
大杉事件の軍法会議での甘粕の陳述。
「大震災の後九月二日の夜中 摂政宮殿下が、潜かに宮城へ御這入りになったという噂が、盛に市民の耳朶を打ったことがありまするが、夫は大杉一派が朴某なる不逞鮮人を煽動して企てた某大逆事件に基因するものであるとの確信を得たのであります」

■甘粕に対する減刑嘆願運動:
早稲田の右翼学生グループの縦横倶楽部や各地の在郷軍人会を中心に全国に広がり、その署名請願者は65万人に達する。

■軍法会議が開かれ(10月8日~)凄惨な犯行が国民の目にさらけ出されるに従って、ジャーナリズム界では、大杉を悼む一方、甘粕を非難する声が高まる。
雑誌「改造」(大正12年11月号)は特集号「大杉栄追想」、「婦人公論」(同年11月・12月合併号)は特集記事「『甘粕と云ふ人間』批判」を組んで、甘粕に非難の集中砲火を浴びせる。

三宅雪嶺「火事場人殺し」
<甘粕が職を辞し、一私人として大杉を殺したならば、己の力の及ぶ限り国家の為めに尽さうとしたものと云ひ得ぬではない。憲兵大尉の職権を以て法律に依らず逮捕して極刑に処するに至つては、単に職権を濫用するのみでなく、憲兵の信用を損じ、併せて広く軍隊に及ぶを遺憾とせねばならぬ。
甘粕は初めから一身を投げ出して居るかどうか、独断専行した処、責任を負うてゐるにしても、死骸を知れぬやうに隠さうとしたのは何の為めか。知れなければ其のまゝ問題にならぬとしたのでないか。子供を殺したのも世間に漏れるのを怖れたのでないか。
その為す処、只管(ひたすら)秘密を保たうとするのであって、秘密結社の陰険手段の最も著しいものに属せぬか。フリーメーゾンに有害の人を Cause to disappear せしむるといふ文句がある。即ち或る手段で行方不明にする事を意味する。
甘粕の行為は、憲兵大尉として、秘密結社の事を敢てするに外ならぬ>

宗教家の高島米峰は、三宅以上に手厳しく甘粕を断罪。
<甘粕大尉の行為は明に、国家の大権を干犯し、陸軍の重法を無視したもので、無政府主義を恐れて居た甘粕大尉自身が、却て無政府主義を実行した事になるのである>

■第1回軍法会議(大正12年10月8日、青山の第1師団司令部)
午前8時30分、開廷。
被告席に軍服姿の甘粕と、共犯とされた東京憲兵隊本部附曹長・森慶治郎。
法務官のうしろの特別傍聴席には、第1師団長石光真臣中将と幕僚、一般傍聴席には、甘粕兄弟や陸士24期の同期生たち。

判士長岩倉正雄(陸軍歩兵大佐)が最初に甘粕を呼ぶ。
原籍、住所、氏名、年齢、叙勲、賞罰など型通りの人定質問、検察官山田喬三郎(陸軍法務官)による公訴事実の朗読、続いて判士小川關治郎(陸軍法務官)の実質審理に移る。

軍法会議の公判記録は散逸しているが、この裁判を傍聴しその様子を書き留めた記録『問題の人甘粕正彦』(山根倬三・小西書店、大正13年出版)された記録がある。
この軍法会議ではは、甘粕は、大杉一家虐殺は自分一己の考えから出たことであり、上からの命令は一切なかったという点で首尾一貫している。
しかし、昭和51(1976)年に発見された大杉一家の「死因鑑定書」は、この甘粕の供述をことごとく覆す結果となった。

この軍法会議で最も見るべきは、殉教者意識の虜になったとしか思えない甘粕の”名演技”ぶりである。

■判士(陸軍法務官)小川關治郎に社会主義者に対する一般的感想を尋ねられた甘粕の陳述
「思想問題については、以前ちょっと研究したことがあります。この頃は特別研究しておりませんが、今日の思想界がほとんど混乱状態に陥り、刻一刻と危機に瀕していることはいまさら申しあげるまでなきことで、国家のため憂慮にたえません。かかる危機的状況を何とかして一日も早く救い、ひいては社会の改善をはかりたい希望をもっておりました。
特にわが帝国は天祐とでも申しましょうか、西洋各国が五、六百年の間に繰り返し繰り返しやっと文明をかたちづくったのに対し、わずか五、六十年の間に建設することができました。この光輝ある帝国に不純なる思想を芽生えさせようとするのは、天と倶に許さざるところであります。
社会主義の根本は、人間が肉体を離れて霊にならなければできないことですが、よしその根本は間違っていても聞くべきものもあります。しかし、無政府主義にいたっては、国家に対し、国体を蠧毒(とどく)し、大和民族の帰結を害うことの甚だしきものであります。
かかる危険思想は、国家を憂える者が決然と起って排斥すると同時に、建国の大本を無視する獅子身中の虫は、天に代わって制裁を加えなければなりません」

■判士と甘粕の応酬
- 震災後の社会主義者の言動について、何か不穏という確証でも得たのか。
「震災後、放火犯人を逮捕して調べたところ、その背後に社会主義者がいて、朝鮮人と連絡をとり、ことを起こそうとしていることを知りました。伊藤野枝が爆弾を懐に、ひそかに活動しているということも聞きました」

- それらの者に対して、いかなる方法をとろうと思っていたのか。
「震災後、人心は非常に動揺しました。私は万一のことを考えて、寝食を忘れてその警戒にあたりました。それというのも、国家が一部人心の動揺のため、危殆に瀕しはしないかと痛感したからであります。しかるに警視庁は、社会主義者の末端は片っ端から検束しているのに、大杉栄のごとき巨頭はそのまま放任していた。これは非常に遺憾なことだと思いました」

- 大杉栄の行動に関して何か確証でも握ったのか。
「一日以来、野枝と一緒に行動していると聞きました」

- 放火犯人や朝鮮人を使嗾した主義者は誰だということだったか。
「ハッキリとはわかりませんが、大杉もむろんその一人だと思いました。特に大杉は検束されていませんでしたから、かかる運動をしているのは大杉らよりほかにないだろうと思ったのです」

ー 大杉の所在を捜索しようと思ったのはいつ頃か。
「九月上旬のことです」

- 所在を知ってどうしようと思ったか。
「捕らえたら殺してやろうと最初から考えていました」
(満員の傍聴席から驚きの声)

- いかなる方法で大杉をヤッツケようとしたのか。
「九月十五日の夕方、森曹長を従え私服で淀橋署に行きますと、大杉は子どもを連れて戸山ケ原を散歩していると聞きましたので、戸山ケ原に大杉がいたら、手で絞殺しよう、万一のときは射殺しようと思い、拳銃を持って行く覚悟を決めました。しかし、大杉は自宅にいることがわかり、その日は目的を果たさず、空しく帰りました」



つづく




【調査報道】日本外交、3000億ドルのシリア復興特需に屈す(ニューズウィーク日本版);<アサド政権の勝機を見越して、インフラ再建の商機が高まるシリア。市場をにらむ日本企業、期待を膨らませる永田町、忖度する霞が関――取材で見えてきたのは、復興特需に翻弄される価値観なき日本外交の姿だった。ニューズウィーク日本版「対中国の『切り札』 インドの虚像」特集号(2017年9月26日号)掲載>

「北朝鮮と断交を」河野太郎外相、世界に要求 背景には、安倍首相の国連総会での「必要なのは行動」演説か。 / 河野外相は、米コロンビア大学で講演し、北朝鮮の核・ミサイル開発を「これまでにない重大かつ差し迫った脅威」とし、北朝鮮と国交のある160以上の国々に対して断交呼びかけ。 .....





【逃げて逃げて逃げまくる安倍晋三。ちゃんと横綱相撲とれよ】臨時国会:北朝鮮非難決議見送りへ 与党、不信任案を警戒 - 毎日新聞 / アメリカでさんざん北朝鮮とはもはや対話は終わったと吠えておいて、帰国したら野党が怖くなり非難決議すら投げ捨てるという逃げ恥.....内閣不信任案が怖いから北朝鮮非難決議上げられないとか、どんだけびびってんねん.....




トランプの国連演説。「ロケットマン」と「完全に破壊」は演説原稿になかった。.....マクマスターたちに再三、金正恩をあだ名で呼ぶな、挑発するな、嘲笑するなって言われてても、あのような演説に。子供の頃からの行動様式というか、本人なりの成功の方程式と思ってるんだろうな。..... / 「アチャー! 言いやがった!」というような感じのケリー大統領首席補佐官(画像)    







米公共放送が沖縄特集 「基地撤退、住民の願い」 — 琉球新報 / (YouTube)On Okinawa, many locals want U.S. troops to leave (「沖縄では、多くの人々が米軍の撤退を望んでいる」)


そぼふる雨、新橋の夜は更けて。2017-09-22

9月22日、くもりのち雨。
久しぶりに新橋で高校からの友人と呑んだ。

この日はあいにくの雨。
昼間は竹橋の近代美術館で4時間ほど浸りきった。
東山魁夷がずら~りと、眼福な半日だった。
(MOMAT所蔵の東山作品17点が全て展示されている)

それに、写真OKなのが嬉しい。

晴れていれば日比谷公園のテニスコート脇の彼岸花を撮りたいと思ってたけど、雨止まず、これはギブアップ。
日比谷公園近くのスタバで1時間ほど携帯を充電しながら、インスタで遊んで、いざ新橋へ出陣した。

そぼふる雨、新橋。




2017年9月22日金曜日

疑問に答えず「今なら勝てる」打算だけ 前川喜平氏(毎日新聞);「消費税の引き上げ分で教育無償化というのは思いつきとしか思えない。幼稚園教諭・保育士の処遇や配置の改善、資質の向上、高等教育の質的充実など、もっとやるべきことがある。」 「その財源は消費税に限らない。特定扶養控除や教育資金一括贈与制度などの金持ち優遇税制を廃止したり、所得税や相続税の累進性を高めたりすることを考えるべきだ。」 


韓国政府、北に9億円規模の人道支援を決定 / 日米首脳“人道支援”で文大統領に強い難色 ; 会談で日米韓3か国首脳は、北朝鮮への対応をめぐって結束を強調したが、韓国政府が決めた人道支援については「今がその時なのか」と文大統領に詰め寄る場面もあったという。 ← 飢えた人々を救うことにも反対と...?



 アメリカ・ニューヨークを訪れている安倍首相は、トランプ大統領、韓国の文在寅大統領と3人で会談した。日米両首脳は文大統領に対して、北朝鮮への人道支援に強い難色を示した。

 会談で日米韓3か国首脳は、北朝鮮への対応をめぐって結束を強調したが、韓国政府が決めた人道支援については「今がその時なのか」と文大統領に詰め寄る場面もあったという。

 (略)

 首相同行筋は「トランプ大統領は相当、怒っていた」「これで人道支援は当面、実施されないのではないか」と語っている。蜜月関係の日米首脳と文大統領との距離感が露呈した形。

 (略)





2017年9月21日木曜日

鎌倉 路傍の彼岸花(白花)とススキ 八幡宮東側の彼岸花(赤花)とハギ 2017-09-21

9月21日、快晴。
予報通り、今年最後の真夏日(30℃越え)だった。
今日の鎌倉散歩は鶴岡八幡宮~宝戒寺。

八幡宮東側の彼岸花の群生がもう終盤を迎えていた。
宝戒寺の白ハギはまだ咲き始めだったが、彼岸花(白花)はもう殆ど終りだった。

下は、八幡宮とその周辺。

▼街の路傍の彼岸花(白花)

▼八幡宮東側の彼岸花とハギ



▼八幡宮境内

▼路傍のススキ

鎌倉 英勝寺の彼岸花(曼珠沙華)7~8分咲き 2017-09-18







「いまなら選挙に勝てそうだから解散」は許される? さすがにダメ、と憲法学者が語る理由 (BuzzFeed)  ; 首相にフリーハンドの解散権はない、で一致 / 国民に信を問うほど、国会で議論しているのか?

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一らの虐殺(その2) 20日、福田雅太郎関東戒厳司令官更迭などの処分 24日、軍法会議検察官談話 25日、遺体引取り   

9月19日夜11時過ぎ、内田魯庵のもとに友人の読売新聞記者安成二郎がやって来て、「大杉が行方不明になりました。どこの警察に問い合わせても検挙されていません。明日、戒厳司令官はじめ陸軍の重職が更迭され、一大尉一特務曹長が軍法会議に廻される異例の人事異動が発表されますが、その理由はまだ説明されていません。どうやら不法殺人らしいのですが、それがどうも大杉らしいのです」と、言う。

9月20日、福田雅太郎関東戒厳司令官が更迭され、後任に山梨半造が任命される。また、憲兵司令官小泉五一少将・東京憲兵隊長小山介蔵憲兵大佐が停職処分となり、東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長甘粕正彦憲兵大尉が、違法行為の為軍法会議に付される。

事実はひた隠しにされるが、大杉を尾行していた淀橋署の刑事からの報告で、警察側は大杉らの身柄について憲兵隊に問い合わせるが、憲兵隊は不知の返事。
その後、両者間で曲折があり、大杉不明の報告は首相にまで達す。
首相から調査を命じられた陸軍大臣の下命により、憲兵隊も犯行を隠すことはできなくなる。

この日夕方、「時事新報」「読売新聞」「大阪朝日新聞」が大杉殺害事件をスクープして号外を印刷するが、直ちに発売禁止、差押えとなる。

9月20日、「大阪朝日新聞」は2回の号外を打つ。
1回目は麹町憲兵分隊長甘粕正彦大尉が不法行為のため軍法会議に付せられ審理中という内容。
2回目は大杉栄殺害をはっきり報じる(殺害方法、殺害場所、単独犯行など間違いもある)。
「甘粕憲兵分隊長留置中の大杉栄を刺殺す。軍法会議に廻された内容。突然関東戒厳司令官以下憲兵司令官、憲兵隊長の大更迭を見るに至った憲兵分隊長甘粕大尉の不法行為内容について本社の探査するところによれば右は十六日無政府主義者大杉栄を逮捕したるに拘はらず赤坂憲兵隊留置所に於て同大尉が独断にて刺殺したるためであると(東京電話)」
9月21日付け「報知新聞」。
「廿日午後一時突然左の如く戒厳司令官が更迭された
補関東戒厳司令官    陸軍大将 山梨半造
免本職 関東戒厳司令官陸軍大将 福田雅太郎
憲兵司令官更迭 別項戒厳司令官更迭とゝもに左の通り憲兵司令官の更迭も発表された。
停職被仰付    憲兵司令官陸軍少将    小泉六一
補憲兵司令官   歩兵第一旅団長陸軍少将  柴山重一
停職被仰付    東京憲兵隊長陸軍憲兵大佐 小山介蔵
補東京憲兵隊長 憲兵司令部附陸軍憲兵大佐 三宅篤夫」

■この間の事情について
時事新報社会部記者吉井顥存「大杉殺し事件の曝露されるまで」(「婦人公論」大正12年11・12月合併号)。
9月20日、福田戒厳司令官以下3人の更迭が発表され、甘粕憲兵大尉が軍法会議に廻されたらしいとの情報が入り、時事新報は社会部記者を憲兵隊本部に差し向ける。
記者が、新任の三宅憲兵隊長に面会を求めると、副官が出てきて知らぬ存ぜぬの一点張り。埒が明かないので、震災で行方不明の友人が心配で駆けつけたという名目で、憲兵隊の周りをうろうろしていると、顔見知りの憲兵が通りかかり、
「いよう、よく来ましたね。大杉事件ですか」
と、相手の方から口を割り、
「殺されてしまったよ。三人とも井戸の中に放り込まれてしまった」
「あとの二人は誰なんです」
「伊藤野枝と子どもですよ。井戸を見ますか。案内しますよ」
と言う。
それだけ聞けば十分なので、記者はすぐに編集局に帰り、号外用の原稿を書く。しかし、そこに、当局から、事件については一切報道禁止との命令が届く。
時事は、大杉殺害のみを書くなら構うまいと判断し、出来たばかりの号外を目黒や渋谷など目ぼしいところに張り付けた。
ところが、その号外も9月7日公布・即日施行の緊急勅令「治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件」に抵触するとの理由で、発行禁止となる。
時事は、当局からの発禁命令が出る直前、大杉殺害だけでなく、犯人の甘粕大尉が軍法会議に廻されたとの情報を京阪神・九州方面に電話で送っていた。
これが、「大阪朝日」号外に繋がる。
9月24日、第1師団軍法会議の予審が終了し、事件の概要が発表される。軍法会議検察官談話として、「甘粕憲兵大尉は本月十六日夜大杉栄ほか二名の者を某所に同行し、これを死に致したり」と発表。

9月25日付け「時事新報」
(見出し)
「大杉栄氏外二名 甘粕大尉に殺さる 十六日夜某所に於て 怪事件昨日発表さる」
(記事)
「福田関東戒厳司令官を交(ママ)迭せしめ、小泉憲兵隊司令官及び小山東京憲兵隊長の停職を命ぜられたる、甘粕憲兵大尉に関する奇怪な事件は、昨日第一師団軍法会議転於て、予審決定と同時に、左の如く発表された。
陸軍憲兵大尉甘粕正彦に左の犯罪あることを聞知し捜査、予審を終り、本日公訴を提起したり。甘粕憲兵大尉は本月十六日夜、大杉栄外二名の者を某所(*麹町憲兵分隊)に同行し之を死に致したり。
右犯行の動機は、甘粕大尉が平素より社会主義者の行動を国家に有害なりと思惟しありたる折柄、今回の大震災に際し無政府主義者の巨頭たる大杉栄等が、震災後秩序未だ整はざるに乗じ如何なる不逞行為に出づるやも計り難きを憂ひ、自ら国家の蠹毒(トドク)を艾除(ガイジョ)せんとしたるに在るものゝ如し・・・」(「時事新報」大正12年9月25日)
9月25日付け「報知新聞」
(見出し)
「甘粕大尉の収監は大杉栄等惨殺のため 兇行は十六日の夜 昨日公判に移さる」
(記事)
「二十一日小泉憲兵司令官及小山東京憲兵隊長が突如更迭された事は少なからず世人を驚かし流言紛々として起ってゐたが、右は無政府主義者の頭目大杉栄及○○○○○○○○○○○○○○の三名を絞殺した事件の為であった。事件の内容は廿四日陸軍省から左の通り発表された」、
続いて、「甘粕憲兵大尉は本月十六日夜大杉栄外二名の者を某所に同行し、これを死に致したり。右犯行の動機は甘粕大尉が平素より社会主義者の行動を国家に有害なりと思惟しありたる」ためとする軍法会議の検察官談話を紹介。
殺された大杉を「幼年学校から革命児へ」と詳しく紹介し、伊藤野枝については、「肉的にも魅力を持った野枝女史」と好色な関心を向け、また、遺児の写真を掲載。
甘粕の上司の岩佐禄郎憲兵司令部副官の談話(岩佐は大正14年2月、甘粕の妹伊勢子を養女にし、そこから彼女を部下の憲兵中尉に嫁に出す)。部下の甘粕に好意的な理解を示す談話。
「甘粕大尉は模範的な青年将校で、一点の非難すべきところのない人格者である。新しい思想に対しても相当の理解があったが、まだ未完成のところがあったのだろう。しかし、アナーキストに対してはどこまでも妥協するつもりはなく、いつかは大鉄槌を加える決心をしていたというから、むしろ満足しているかもしれない。それにしても陸軍は本当に惜しい青年を失った」

同日付け「東京朝日新聞」も甘粕に対する好意的な論評を掲載。
「甘粕大尉は極めて謹厳な精神家で、酒も飲まず道楽も持たず最近迄令弟と令妹の教育の為め総てを捧げ、令弟は東大法学部を出たが、令妹はまだ未婚である。甘粕大尉は「妹を嫁つける迄は」と今日迄独身生活を続けて来た。
平常は殆ど無口で読書を好み、「憲兵は人事を司どる職務だから」と云って広く新しい方面の書も読んでゐた。又部下に対しては全く慈父の子供に対する如き暖かみを以て接して居た。
令弟と令妹の教育の為めに殆ど余祐の無い生活の中から、随分部下の為め思ひ切った援助を為した事もあった位で、部下も同大尉を心から敬愛し、今度大尉が大杉栄を殺害した廉に依り軍法会議に廻された事に就き非常に同情を表し、身代りにさへ切望して居る部下が尠くないと伝へられて居る」

9月25日、安成二郎・服部浜次・大杉勇が衛戍病院で大杉の遺体引取る。
3人の遺体は犯行が露見してから、20日、憲兵司令部(麹町区大手町1丁目1番地、現・千代田区丸の内1丁目1番地)裏手の井戸から引上げられる。
27日荼毘に付し、28日通夜。葬儀は12月16日。

この日(25日)も、いつものように大杉の近くに住む内田魯庵の家に大杉と野枝の間にできた最初の子、魔子が遊びに来た。魯庵は自分の子どもたちに「魔子ちゃんが来ても魔子ちゃんのパパさんのことをいってはいけないよ」と注意していたが、魔子の方から「パパもママも死んじゃったの。叔父さんとお祖父さんがパパとママのお迎えに行ったから今日は自動車で帰ってくるの」と無邪気にいった。魯庵はそのけなげさに不憫を感じ胸をしめつけられた。
*
*
つづく

ニュース23(動画) 星浩「今回の冒頭解散は憲法違反。」 「憲法論議するならいまの憲法を守ってからにしてもらいたい。」     

冒頭解散めぐり、安倍首相に自民党内から苦言 石破茂氏「何のための解散か明確にすべき」; 安倍首相は「真摯に説明責任を果たす」と言っていたが… / 消費税の使途を公約化することも、「党内民主主義をすっ飛ばして国民に問うべきではない」と.....


 

【これ、やっぱペテンでしょ → 】 消費税8%に上げたときの国民との約束がこれ。平気でこれを破った政権が、同じ約束で10%に上げることを選挙の目玉にするらしい。 / 改憲でもこれ ↓



▼おまけにこれ



【どうなってんや!維新!】基準地価:名古屋が全国2位 商業地最高価格、大阪市抜く - 毎日新聞

9.19を忘れない/言わねばならないこと:100 山田洋次さん(映画監督) ・主張する自由 失うな ・反抗が若者の特権、従順すぎる(東京新聞) ; 山田洋次さん「特定秘密保護法という不気味な法律が国会を通ろうとしたとき、僕らの学生時代だったら、日本中の学生が立ち上がって、大デモンストレーションが起きたでしょうね」「なぜ、こんなにおとなしく、聞き分けがよくなってしまったのだろう」


北朝鮮への国連決議に背いたのは安倍首相でもある(まさのあつこ)  / 国連演説でも北朝鮮危機を煽りまくった安倍首相に、NYタイムズコメント欄でも批判殺到! 戦争ゲームに興じる子どもみたい / 国連総会で「トランプのアメリカ」と運命共同体になることを明言した安倍演説は、「日本を米国と同列の攻撃目標にしなければならない」という口実を、改めて北朝鮮に与えた、と →深呼吸:権力者の精神性=柳田邦男 - 毎日新 / 【いつ対話した? → 】首相「対話は無に帰した」 国連演説、8割は北朝鮮問題 / 北朝鮮問題「必要なのは対話でない」 安倍首相が国連演説 / Japan's Abe says time for talk is over on North Korea / (背後から映さないでね。バレるから)それにしても人いない。場内はガラガラ。スピーチの途中で退室する人も。とても寂しい演説。    


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2017年9月20日水曜日

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一ら麹町憲兵隊で虐殺される(犯人とされた憲兵大尉甘粕正彦、懲役10年、3年で仮出獄)。 19日、検察官取り調べ。22項目の甘粕供述。

【増補改定版】 大正12年(1923)9月11日~12日 中国人社会運動家王希天が軍隊に殺害される(王希天、70年の「行方不明」) ソ連の震災救援船「レーニン」号が横浜入港するも退去命じられる スペイン・バルセロナの駐屯地で反乱、軍事独裁政府樹立(~1930)
より続く


大正12年(1923)9月16
・大杉栄・伊藤野枝(28)・甥橘宗一ら虐殺。
憲兵大尉甘粕正彦懲役10年、3年で仮出獄。

憲兵大尉甘粕正彦によって拉致。その日のうちに憲兵隊構内で扼殺。遺体は、畳表で巻かれ古井戸に投げ捨てられる。
1976年(53年後)に発見された死因鑑定書によれば、伊藤・大杉ともに肋骨が何本も骨折、死亡前の激しい暴行が発覚(甘粕らは軍法会議法廷で、被告らは被害者が「苦しまずに死んだ」と陳述)
その後の研究によれば、虐殺命令を憲兵隊上層部(憲兵司令官小泉六一)ないし陸軍上層部(戒厳司令官福田雅太郎大将)が出したと推認。

甘粕事件の発覚は、橘宗一が米国国籍を持っていたため、アメリカ大使館の抗議を受けて狼狽した政府(首相山本権兵衛)の閣議(19日)で問題になったから。
19日朝、布施辰治は、村木源次郎より大杉らの行方不明を聞き警視庁で湯浅倉兵総監を問詰める。
24日、公表。

大杉栄(38)、伊藤野枝(28)。
残された子ら。長女魔子(6)、3女エマ(2歳8ヶ月)、4女ルイズ(1歳8ヶ月)、長男ネストル(2ヶ月弱)。尚、2女エマは、大杉の妹牧野田松枝の養子として大連で育てられている。

以下
『甘粕正彦 乱心の曠野』(佐野眞一)によりこの虐殺事件を見てゆく。

大正12(1953)年9月16日午前9時過ぎ、大杉栄と同棲中の伊藤野枝は、豊多摩郡淀橋町字柏木371番地(現、新宿区北新宿1丁目16番地)の自宅を出た。すぐ隣に住む文芸評論家内田魯庵の妻がそれを見かける。魯庵の家に遊びに来ていた長女の魔子(6歳)によると夫妻は鶴見に行くという。
そして、その日以来、大杉夫妻は姿を見せなくなった。

地震後の混乱に際して、朝鮮人暴動の背後には社会主義者の煽動があるなどの流言が流されており、また検束された社会主義者も出てきている状況なので、大杉の友人はそれとなく注意したが、迫害に慣れている大杉は、「俺を捕まえるには一個師団の兵隊がいる」と大言壮語して一笑に付していた、という。
しかし、実際にはこの時点でまだ拘束を免れていた無政府主義者は大杉だけであった。

大杉は、前年末にフランスに国外脱出し、パリ近郊のメーデー集会で逮捕されラ・サンテ監獄に収監後、国外追放となり、この年7月に、凱旋将軍のように帰朝したばかり。
警察も軍も、日増しに盛名をはせている大杉に対しては、以前にも増して激しい憎悪をつのらせている。

大杉夫妻は、焼け野原のなかを鶴見まで行き、大杉の弟・勇の避難先で甥の橘宗一(6歳、米国籍、大杉の妹あやめが米国で結婚して生んだ子供)を預かり帰路についた。
しかし、その後の3人の行方はそこで途絶えた。

それから2~3日後には、魯庵は、大杉は検挙され留置所に入れられたまま火事で焼け死んだというような不穏な噂を耳にするようになる。

9月14日付け「東京朝日新聞」のコラム「青鉛筆」。
「大杉栄は殺された、社会主義者はやられたと云ふ様な流言が大分行渡って居たが、警視庁に真否を尋ねて見ると、大杉オン大はじめ御連中は極めて安全に私服諸君の保護を受けて自宅に縮こまってゐるさうだ」

9月19日、検察官取り調べ(甘粕の態度はのちの軍法会議と同じ)

■陸軍法務官山田喬三郎による検察官調書
・被告人 陸軍憲兵大尉 甘粕正彦(当年三十三歳 本籍 山形県米沢市門東町上ノ町六九五番地 住所 東京府豊多摩郡渋谷町憲兵分隊長官舎)
・罪名 殺人
・起訴理由 被告人は平素社会主義者の主張に嫌厭たらざるものあり。就中大杉栄は無政府主義者の巨頭なるを以て震災の為め混乱せる場合に軍隊撤退後如何なる不逞行為に出つるやも知れざれば、此際に於て殺害するを国家の為め有利なりと思惟し、麹町憲兵分隊長を兼務せるを幸として其居所を内偵し居りたる所、大正十二年九月十五日府下柏木に居住せること判明したるに依り、翌十六日、同地より大杉栄、伊藤野枝、及当年七才位の男児一名を麹町憲兵分隊に同行し、同日午後八時三十分頃より同九時三十分頃迄での間に同分隊構内建物空室に於て右栄、野枝及男児を順次に絞殺したるものなり。
右は予審に附するを相当なりと思料候也

■甘粕の供述
1.私は本年八月、陸軍の人事大異動以来、渋谷憲兵分隊に勤務しておりましたが、九月一日、同分隊の仕事に携わっているとき震災が起こり、同日から麹町憲兵分隊長として昨日十八日まで勤務しておりました。
(事実は、甘粕が千葉県市川の憲兵分隊長から渋谷憲兵分隊長に栄転したのは大正11年1月。翌大正12年8月6日の陸軍大異動で渋谷憲兵分隊長の身分のまま麹町憲兵分隊長代理との兼務を命じられ、9月1日に正式に渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長となった)

2.震災後、警視庁始め各警察署に於いて社会主義者の検束につとめており、麹町憲兵分隊に於いても検束に従事していました。しかし、主義者の巨頭の大杉栄は警視庁管内でも検束を受けていません。軍隊の警備中は主義者は何らの行動も起こしませんが、軍隊の撤退後はいかなる行動を起こすかわかりません。とりわけ、大杉栄を検束しないのは遺憾に思い、今月十日頃より捜索をしておりました。しかし、大杉は淀橋方面にいるというだけで、住所をつきとめることができずにいました。
十五日になって、淀橋警察署の特別高等係が案内してくれて、柏木三百八十何番地かに伊藤野枝と一緒に暮らしていることがわかりました。
(大杉夫婦が住んでいたのは柏木三七一番地。
ここでは、警察が大杉のアジトを突きとめる手引きをしていたことが注目される。大杉一家殺害には警察が関与していたのか、軍の単独犯行だったのか。この問題は軍法会議でも取りあげられた。真相究明までにはいたらなかったが、あとあとまで尾を引いた。そもそも大杉事件が露呈するきっかけは、軍と警察の反目にあった。そしてその背景には、内務省と陸軍省のドロドロした暗闘劇が絡んでいた。)

3.淀橋署の特別高等係に大杉の居所を案内してもらったのは、麹町憲兵分隊と同じ建物にある東京憲兵隊本部附憲兵曹長の森慶治郎が、大杉栄の居所を捜索するため十五日の午前中に淀橋署に行き、松元という同署の特別係長から大杉についてこんな相談をされたからです。
その相談というのは、森曹長の話では、淀橋署では大杉の居所はわかっているが、警察ではヤッツケることができないので、憲兵の方でヤッツケてくれないかという話だったそうです。
淀橋署の署長も公然とは言えないが、ヤッツケてもらいたい意思であると話していたとのことでした。
帰隊した森曹長からそれを聞いた私は、森曹長と鴨志田安五郎、本多重雄の両憲兵上等兵を連れて麹町憲兵分隊を出て、午後六時頃、淀橋署に行きました。そして、私と森曹長が淀橋署の案内で大杉栄の家に行きました。いま申し上げたヤッツケてくれというのは、殺してくれという意味です。
(鴨志田、本多の両憲兵上等兵は、森曹長と同じ東京憲兵隊本部に所属し、後述する東京憲兵隊本部の平井利一伍長と前後して第1回軍法会議の終了後自首したため、甘粕、森とともに大杉事件の被告となった。)

4.私と森曹長は淀橋署の案内で大杉栄の居所付近まで行きましたが、そのときは大杉栄を尾行している淀橋署の巡査が見当たらなかったため、大杉栄の所在を確認することはできませんでした。その日は、鴨志田上等兵をその場に残して帰りました。分隊に帰ると、大杉の居所まで案内してくれた淀橋署の者から、電報で大杉を浦和あたりまで連れだし、ヤッツケたらどうかと言ってきましたが、それは難しかろうと思ってやめ、翌十六日あらためて大杉栄の居所に行く約束をしました。

5.翌日は午後二時半頃、森曹長、本多上等兵、平井伍長と一緒に淀橋署に行きました。昨日案内してくれた者と私服の巡査が、私らを大杉の居所まで連れて行ってくれましたが、大杉は不在でした。隣の酒屋で聞くと、南の方に行ったとのことなので、大杉の居所から約二丁離れた二つの街道に手分けして張り込んでおりました。
淀橋署の者に調べてもらうと、大杉は鶴見方面に出かけ、午後五時半頃には帰宅するはずだとのことでした。また、淀橋署の話で、大杉栄が白の背広を着用して中折帽をかぶり、伊藤野枝も洋装だということがわかりました。

6.張り込んでいたところ、午後五時半頃、淀橋署の方面から大杉栄、伊藤野枝が七、八歳の男児を連れて帰ってきました。野枝は私が張り込んでいた家の前の果物屋に入り、梨を買っていました。大杉と子どもは店の外で待っていました。
野枝が買い物を終わって店の外に出てきたとき、森曹長が憲兵隊に同行せよといいました。大杉は一度帰宅させてくれといいましたが、私と森曹長がすぐに来てくれといって、淀橋署まで連行し、同署から自動車に乗せ、三人とも麹町憲兵分隊に連れて帰りました。午後六時半頃のことでした。
(この男児は、大杉の妹あやめの長男の橘宗一。この日、大杉と野枝は、鶴見に避難している大杉の弟の勇のところに震災見舞いに行った。そこに預けられていたのが宗一で、宗一は東京の火事の焼け跡が見たいというので、一緒に連れて帰宅した。)

8.麹町憲兵分隊に連れて帰り、使用していなかった階上の東京憲兵隊本部隊長室に三人を入れて夕食をとらせました。そして午後八時頃、やはり使っていなかった憲兵司令部の応接室に、森曹長が大杉栄だけを連れて行きました。その部屋で森曹長が大杉を取り調べているとき、私が大杉の腰かけている後方から部屋に入り、すぐに右手腕を大杉の咽喉にあて、左手首を右手掌に握らせて後ろに引き倒しました。
大杉は椅子ごと後方に倒れましたので、右膝頭を大杉の背骨にあて、柔道の絞め手で絞殺いたしました。大杉は両手をあげて非常に苦しみ、約十分間くらいで絶命いたしました。そのあと、携えていた細引きを首に巻いてその場に倒しておきました。大杉は如何なるわけか、絞殺するとき、少しも声をあげませんでした。

9.森曹長には同人が調べているときに私が絞殺するということを示してありました。森曹長は、私が絞殺をしはじめるときにはボンヤリして椅子に腰かけていましたが、ほとんど絶命するようになって足をバタバタバタバタいわせていましたので、私が命じてその足を捕えさせたと思います。

10.それから午後九時十五分頃、隊長室に行きますと、伊藤野枝が机に右肘を乗せ、入口の方を背にして椅子に腰かけておりました。私は室内を歩きながら、戒厳令などという馬鹿なことをやったと思っているだろう、と聞いたところ、笑って答えませんでした。兵隊などというものは馬鹿に見えるだろう、と重ねて尋ねますと、この頃は兵隊さんでなければならぬようにいうではありませんか、という答えが返ってきました。
そこで私は、自分らは兵隊で警察官だから、君たちから見れば一番イヤなものだろう、君たちは混乱がさらに続くことを望んでいるのだろう、と尋ねました。すると彼女は、あなたたちとは考え方が違うから仕方がありませんね、と笑いながら答えました。
それを聞いて私は、どうせ君はこんな状況を原稿の材料にするのだろうというと、もう本屋から二、三注文がきている、と笑いながら答えました。そんな会話をしているうち、私は彼女の右横に廻り、大杉に対して行ったのと同じ方法で絞殺いたしました。
伊藤野枝の場合、位置が悪かったため大杉より一層困難で、野枝は二、三回ウーウーという声を出し、私の左手首のところを掻きむしりましたが、同人も約十分くらいで絶命しました。そして携えていた細引きを首に巻き、その場に倒しておきました。

11.私が伊藤野枝と会話しているとき森曹長も部屋に来ており、一、二伊藤野枝と会話していたように記憶しています。私が伊藤野枝を絞殺したときにも森曹長は傍らにいましたが、何も手伝いはさせませんでした。

12.子どもは淀橋警察署から自動車で麹町憲兵分隊に来る途中から、私になつき、分隊に来てからも、付きまとっていました。分隊で誰か引き取って養育してやる者はいないか、と冗談のように言ったほどです。子どもは伊藤野枝を絞殺する前に私のところに来ましたから、隊長室の隣の部屋に入れて戸を閉めておきました。
子どもは隣室で騒いでおりました。私は伊藤野枝を絞殺すると、すぐ隣室に行き、手で咽喉をしめ、その後細引きを首に巻きつけておきました。子どもは絞殺するとき声をあげませんでした。
(この供述には、伊藤野枝との会話のようなリアリティーがほとんど感じられない。宗一の殺害に関しては軍法会議でも大きな争点になった。)

13.大杉栄、伊藤野枝を私が絞殺したときには森曹長が傍らにおり、大杉のときは私の命令で一時足を捕まえさせましたが、部屋には森曹長以外には誰もおりませんでした。

14.大杉栄、伊藤野枝及び子どもの三死体は、午後十時半頃、森曹長、鴨志田、本多、平井の三上等兵に手伝わせて、憲兵隊の火薬庫のそばにある井戸の中に菰に包み、麻縄で縛って投げ込みました。
私は死体を外に運び、わからぬように処置しようと思いましたが、森曹長以下が死体を運び出すことを嫌っていたのと、後日発覚のおそれがあると思い、構内の井戸に投入することにしたのです。

15.死休を投げ込んだ古井戸は全然使用したことがないもので、震災で倒壊した火薬庫の煉瓦で蓋がされていましたので、それを取り除いて投入しました。その上から煉瓦を多数投入して埋めました。翌日人夫が来ていましたので、その人夫に命じて、馬糞や塵芥を投げ入れて井戸を完全に埋めてしまいました。

16.三つの死体とも裸で菰にくるみました。これは、最初外に運び出そうと思っていたからです。

17.三名がそれぞれ身につけていたオペラバッグや帽子、靴下、下駄などは、翌十七日の夕方、築地方面に自動車で巡視に行った際、逓信省の焼け跡の石炭の燃えているなかに投入して焼却しました。

18.大杉栄の捜査検束は憲兵隊長にもまったく報告せず、絞殺することも私一己の考えでやりました。

20.大杉栄を殺害することは、淀橋署が大杉の居所案内に協力してくれたことから考えて、同署も内々で同意しているものだと思っておりました。
しかし、大杉らを殺害した翌日の十七日、森曹長が大杉の捜査協力のお礼を兼ねて淀橋署に行き、大杉らは昨夜帰宅させたのでもはや尾行の必要はないだろうといったところ、同署では大杉の件についてはまだ警視庁に報告していない、二、三日したら行方不明として報告するつもりだ、と言ったとのことでした。
また同日、大杉の件につき隊長の命令で淀橋署に行った本部附の杉田中尉の話によれば、同人が大杉栄方付近を聞き回ったところ、淀橋署は巡査を派遣して大杉栄方に異常はなかったかと隣家に問い合わせていたそうですから、あるいは大杉らの検束について同署は全然関係がないように装ったものかも知れません。

21.大杉らを検束した後、淀橋署で私らの行動を内偵していたかどうかはわかりませんが、大杉らの検束及び殺害について最初に言い出したのは淀橋署だったと思います。なぜなら、森曹長が最初に淀橋署に立ち寄った際、名刺を差し出し、同署ではそれを警視庁に報告したようだからです。私は最初から氏名を告げませんでしたので、警視庁の方でも私がやったことは知らなかったようです。
(淀橋署は憲兵隊によって大杉らが検束されたことを知りながら、偽装工作までやってロをぬぐったらしい。淀橋署からその報告を受けた警視庁でも責任が及ぶことを恐れてそれを握りつぶしたらしい。甘粕はここで、そう疑っている。
ここでも警察の関与問題がむしかえされ、軍と警察の間に暗闘があったことがほのめかされている。
しかし、甘粕は最後に「これはあくまで私一己の考えでやったことであります」と、もう一度述べている。)

22.私が大杉栄を殺害しょうと思ったのは、憲兵分隊長としての職権でやろうとしたのではなく、一個人として国家のため殺害する必要があると信じたからであります。ゆえにその殺害は、私自身が責任を受けるべきものと覚悟いたしております。
*
*
つづく

(動画)トランプ大統領が国連の総会、193カ国の首脳陣の前で「北朝鮮を完全に破壊する」と脅迫したシーン。日本語字幕付です。 / 「北朝鮮が地図上から消える」とも









福島原発事故、原子炉に届いた冷却水は「ほぼゼロ」だったと判明 事故から5年半が経って分かった(NHKスペシャル『メルトダウン』取材班); その結果、もともとあった核燃料と原子炉の構造物、コンクリートが混ざり合い、「デブリ」と呼ばれる塊になった。1号機のデブリの量はおよそ279トン。もともとのウランの量69トンに比べ4倍以上の量となった。


 (略)

しかし、消防車から注ぎ込まれた大量の水は、途中で「抜け道」などに流れ込んだことで、原子炉にたどり着いた水は“ほぼゼロ”。コンクリートの侵食は止まることなく、3月23日午前2時半には深さは3・0メートルに達した。

その結果、もともとあった核燃料と原子炉の構造物、コンクリートが混ざり合い、「デブリ」と呼ばれる塊になった。1号機のデブリの量はおよそ279トン。もともとのウランの量69トンに比べ4倍以上の量となった。

日本原子力学会で福島第一原子力発電所廃炉検討委員会の委員長を務める宮野は、大量に発生したデブリが、今後の廃炉作業の大きな障害となると憂慮する。

「279トンってもの凄い量ですよ。しかも核燃料とコンクリートが入り混じって格納容器にこびりついている。取り出すためにはデブリを削る必要がありますが、削り出しをすると、デブリを保管するための貯蔵容器や施設が必要になっていく。

本当に削り出して保管するのがいいのか、それとも、削らずこのまま塊で保管するのがいいのかって、そういう問題になっていく。保管場所や処分の方法も考えなければいけない」

 (略)



冒頭解散「理解できない」=河野元議長:時事ドットコム ; 「(森友・加計問題を)丁寧に国民に説明するとずっと言ってきたのに、一度もせず冒頭で解散するのは理解できない」 「権力者が自分の都合で解散するのを、野党が『何だ』と思うのは当然だ。議会制民主主義の本旨をもう少し踏まえて議会運営をしてほしい」 / 安倍政権の外交は「非常に不満」 河野元衆院議長が批判 ; 「国民はこの間、裏切られ、願いが届かず、どれだけ悲しく悔しい思いをしたか。あの気持ちを国民は簡単には忘れないだろう」


 河野洋平元衆院議長は20日、日本記者クラブで記者会見し、安倍晋三首相が臨時国会冒頭にも衆院を解散することに関し、「(森友・加計問題を)丁寧に国民に説明するとずっと言ってきたのに、一度もせず冒頭で解散するのは理解できない」と批判した。

 河野氏は「権力者が自分の都合で解散するのを、野党が『何だ』と思うのは当然だ。議会制民主主義の本旨をもう少し踏まえて議会運営をしてほしい」と語った。 (2017/09/20-18:18)



2017年9月19日火曜日

後藤謙次「今回の選挙の争点は、朝刊を見ると全紙ほとんど違う。それだけはっきりしない。ただ一つ言えるのは安倍さんの過去3年間の政策についてイエスかノーかを問うことが大きな争点。となると2年前に制定された安保法制も十分に吟味して投票行動に反映させていく、これが有権者の義務」














鎌倉 寿福寺参道 海蔵寺のハギ、ホトトギス 路傍のキバナコスモス 2017-09-18

9月18日の鎌倉散歩。
英勝寺以外のところ。

▼寿福寺参道

▼海蔵寺のハギ
お寺の正面、山門前の階段の両脇にビッシリと咲いている。

▼海蔵寺のホトトギス

▼路傍のキバナコスモス

鎌倉 英勝寺の彼岸花(曼珠沙華)7~8分咲き 2017-09-18


明治39年(1906)10月 漱石(39)「二百十日」(「中央公論」) 徳田秋声(36)「佐十老爺」(「新小説」) 三木露風、「雨ふる日」「古径」「鑓鳴る昼」等の連作を上田敏の「芸苑」に発表 与謝野鉄幹、北原白秋、茅野蕭々、吉井勇ら紀伊に遊ぶ

鎌倉 英勝寺
明治39年(1906)10月
・添田唖蝉坊『喧嘩坊流生記』の口絵写真には、この年の秋頃のもので、唖蝉坊、堺利彦、中里介山、渡辺政之輔、福田英子らと夢二が写っている。
*
・漱石(39)、「二百十日」(「中央公論」)
「中央公論」10月号に、夏目漱石「二百十日」、島崎藤村「家畜」、独歩「入郷記」の3編が載り、この月の最も注目を浴びる内容となった。それは年若い編輯者滝田樗陰の着想と努力によるものであった。この時期から、「中央公論」の文芸は少しずつ文壇で特に重視される気配が生れた。

漱石は1906年9月10日付高浜虚子宛の手紙の中に、
今度の中央公論に二百十日と申す珍物をかきましたよみ直して見たら一向つまらない。二度よみ直したら随分面白かつた。どう〔いふ〕ものでせう。君がよんだ〔ら〕何といふだらう。又どうぞよんで下さい。
(『漱石全集』22巻)
と。

虚子は読んで、「論旨に同情がない」、「滑稽が多過ぎる」、「不自然と思ふ」と評したのに漱石は抗弁している(10月9日付虚子宛書簡)。

漱石は「二百十日」に、圭さん碌さんの二人を配し、二人の会話から、当時の社会状況を批判している。滑稽な会話もあるが、華族や金持ちにたいする憤慨を吐露している。社会主義的な意識を貫き、反体制的な作品でもある。二人の次のような会話がある。二人の青年は阿蘇山に登ろうとしてその近くにいる。

「なあに仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりや、あゝなるのは自然の理窟だからね。ほら、あの轟々鳴って吹き出すのと同じ尊さ」
(中略)
「僕の精神はあれだよ」と圭さんが云ふ。
「革命か」
「うん。文明の革命さ」
「文明の革命とは」
「血を流さないのさ」

平出修は「二百十日」にたいし、同年十一月号「明星」の「文芸彙報」の中で、
中央公論の秋期付録に夏目氏の『二百十日』、島崎氏の『家畜』何れも期待した程のもので無かつた。
(『定本平出修集」)

・長谷川天渓「幻滅時代の芸術」(「太陽」)10
*
・島村抱月の主筆する「早稲田文学」の「彙報」欄が、近時の文壇の新傾向を代表する3冊として、藤村「破戒」、漱石の短篇集「漾虚集(ようきよしゆう)」、独歩「運命」を取り上げて論じた。
それは、
「小説壇の新気運は本年の春に入って、稍発動し始めた観がある。其以前のしばらくの小説壇にはさして著しい現象も見えず、大体に於いて在来既に名を成せる人々の馳駢に任せてゐるの観あり、夫等の人々に在つても、未だ斯壇に生面を開展し来たるといふが如き態度をば取らず、所謂写実小説といひ、家庭小説といふ在来の風潮を追ふに止まってゐた」
と述べ、この頃の新しい傾向を代表する作品は、在来文壇の別方面で名を為していた者又は、未だ小説壇で名声を得なかった作家たちによって書かれたとして、この3冊を代表的に取り上げていた。
独歩「運命」については、その他に「文庫」では小島烏水が、「太陽」では長谷川天渓がこれを取り上げて賞讃した。国木田独歩の作家としての地位は、数え年36歳になって出版したこの「運命」によって確立した。
*
・徳田秋声(36)「佐十老爺」(「新小説」)
秋声は前年(明治38年)10月「新潮」に「お俊」を、11月独歩の経営する「新古文林」に「昔の恋人」を、12月「新小説」に「侠美人」を、同月「新声」に「正直もの」をと次々と書いた。
またこの年(明治39年)1月には「時事新報」に「亡母の記念」を連載、2月「文芸界」に「学士の恋」、3月「太陽」に「生死」、4月「中央公論」に「ひとり」、6月「新潮」に「悪徒の娘」、7月「新小説」に「老骨」、10月「新小説」に「佐十老爺」をと書いた。しかも多くは巻頭の小説であった。
彼の作家としての地位は次第によくなっていたが、作品には硯友社風の古い書き方かつきまとっていて、この時の文壇の流行になりかかっていた近代的写実の手法からは遠いものであった。
秋声は、明治39年、数え36歳、2児の父になっていた。この年は師の紅葉が死んでから4年目、秋声は硯友社の末流の1人として、栄えない作家の1人であった。
日露戦争中の明治37年から38年にかけて文壇は沈滞し、秋声は辛くもその生活を支えていた。「文芸倶楽部」「新小説」「文芸界」のような文学雑誌ですら、戦争を描いた作品が多く載せられた。江見永蔭、遅塚麗水、山岸荷葉、田口掬汀などが戦争小説の主な筆者であった。純文学の作品を発表する舞台は狭くなり、生活の前途は暗澹たるものに感じられた。 
紅葉の死と前後して、硯友社に反旗をひるかえすような写実主義の新風が小杉天外や田山花袋の作品によって興った。また戦争の終り頃の明治38年からこの年、明治39年にかけて、夏目漱石や島崎藤村の新作が世評のまとになっていた。
秋声はゾライズムには関心を寄せていたが、そういう新しい作風を要領よく取り入れることはできなかった。35歳という相当の年齢となりながら、文壇から浮き上った存在になっていた。

戦争中、彼は生活に困って、多少戦争に関係のありそうな題材の小説「通訳官」を書いて春陽堂へ売りに行ったことがあり、「新潮」には「召集令」という短篇を書いた。また明治37年12月から「万朝報」に「少華族」という長篇小説を連載し糊口の資を得ていた。それを書き出した頃、秋声は結婚以来住んでいた小石川表町の、友人の田中千里の借家を出て、本郷森川町の借家に移った。「少華族」は完結して、明治38年夏、2冊本に分けた上巻が春陽堂から刊行された。
*
・三木露風、「雨ふる日」「古径」「鑓鳴る昼」等の連作を上田敏の「芸苑」に発表。
「芸苑」は、明治35年2月上田敏が文友館から出し、1冊で廃刊にしたものであるが、明治39年1月から、馬場孤蝶、生田長江、森田白楊等とともに再興して左久良書房から刊行していた。三木露風は明治38年10月に出た上田敏「海潮音」の影響を受けたが、上田敏も露風の才能を認めて、明治40年に入ると、毎月のようにその作品を「芸苑」に載せた。
露風は「芸苑」に作品を発表するとともに、尾上柴舟の事前草社から離れて、詩作に専念するようになった。
明治40年4月、露風は、早稲田系統の雨情野口英吉、御風相馬昌治、介春加藤寿太郎、東明人見円吉等とともに、早稲田詩社を組織した。このとき、露風は数え年19歳、野口雨情26歳、相馬御風25歳、加藤介春23歳、人見東明25歳であった。露風以外の4人は、人見束明が明治38年11月から麻生茂という醸造家の出資で出していた詩の雑誌「白鳩」に執筆していたメンバーであった。だがその「白鳩」は、明治39年4月で廃刊になっていた。
*
・堺利彦、月初めに淀橋町柏木343番地(現・新宿区北新宿1丁目)へ引っ越し(その後、柏木314番地、柏木104番地と住所変更)。
同時に、由分社を解散して『家庭雑誌』は大杉栄・堀保子夫妻の手に譲渡。
『家庭雑誌』(1906年11月号)には、「俄かに色々の都合から由分社が解散されることになり」「其等の片の付くまで一時本誌を休刊せねはならぬ次第に立至った」とのみ書かれているが、これは第2次『平民新聞』発刊が決まって、堺はその準備に専念する必要があったから。
以後、『家庭雑誌』は大杉夫妻が発行していたが、1907年6月に大杉が新聞紙条例違反で入獄したため、発行人を平民書房主人の熊谷千代三郎に委ねることになった。
その後、同誌が終刊すると、赤旗事件で大杉が入獄中、生活に窮した妻の堀保子が1909年4月に復刊を図る。しかし、第4号が発行停止になり、ついに幕を閉じる。
*
・与謝野鉄幹、北原白秋、茅野蕭々、吉井勇ら紀伊に遊ぶ(伊勢・紀伊・和泉・摂津・大和・山城などを旅行)。この時、佐藤春夫は14歳新宮中学3年。
紀州は鈴木夕雨(歌人、木本町紀南新聞社長)の招請。
8日、大石誠之助は与謝野らを歓迎し、新宮林泉閣で歓迎会を開き、翌9日、談話会をもっている。与謝野らは大石の甥の西村伊作の家にも泊った。こうして与謝野と大石は知り合った。牧師沖野岩三郎が新宮キリスト教会へ赴任したのは教師試補として翌年6月であるから与謝野はこの時は沖野に面会しなかった。
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・ハーグの国際仲裁裁判所、米・加間の漁業権問題を調停し、解決。
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・モディリャーニ(22)、パリ、モンマルトルのコランクール街に住み、未来派画家ジノ・セヴェリーニと友達になる。ユトリロと飲みあかしたりする。
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「人づくり解散」自民党内から懸念の声も… (日テレ); 自民党・丹羽議員「何の議論もなしにいきなり打ち出されては困ると。全くナンセンスな話です。いきなり持ち出して」








二階氏、森友・加計は「小さな問題」=石破氏「国民は納得せず」(時事通信); 「われわれはそんな小さなというか、そういう問題を隠したりすることは考えていない」 / 都議選で自民党を大敗に導いた「落とせるものなら落としてみろ」に続き、総選挙でも暴言 / 二階氏の言う通りとすると、わが国の首相は、「小さな問題」に進退をかける愚か者ということになる。— 志位和夫