2017年8月16日水曜日

(Dailymotion)狂気の戦場、ペリリュー

【昭恵隠し、日報隠しのため 職員の海外出向発令(栄転とか)】昭恵夫人付の職員、イタリア大使館に異例の異動になっていた / 《谷氏以外に、海外に出向したキーパーソンとして挙げられるのが、防衛省の前統合幕僚監部参事官付国外運用班長の小川修子氏だ。小川氏は、南スーダンPKOの日報隠蔽問題で実務レベルの責任者だったが、現在、在中国大使館の1等書記官を務めている》







2017年8月15日火曜日

(YouTube)フジ子・ヘミング~ラ・カンパネラ(2015)


フジ子・ヘミング~ラ・カンパネラ(2015)




「侵略忘れられない」マレーシアで太平洋戦争の追悼式典(朝日新聞); 「戦争を知る世代がどんどん減っているのが心配だ」。歴史を伝え続けるため、来年クアラルンプールに新しい記念碑を建設する予定だという。

日本軍の記述がすごい ~ シンガポール建国の父 リー・クアンユー元首相の回顧録 - NAVER まとめ / 「シンガポールの父」リー・クワン・ユー氏の自伝読んだら、当時の日本軍の彼の地での極悪非道ぶりがしっかり書かれていた。氏は、日本統治下にあったシンガポールでの実体験で、「残虐さは日本軍の持ち味」だと感じ、日本兵のビヘイビアを観察し続け、後々、氏の政治哲学に役立てた、と書いた。




戦没者追悼式で天皇陛下が「お言葉」 退出前、記者が見た異変(JCAST) ; 「天皇陛下は立ち上がった直後に客席に目をやった後、式壇を向いて両手を前に組んだ状態で、そのまま20秒以上動かない状態が続いた。...」


(略)

3年連続で「深い反省」に言及

天皇陛下は「お言葉」の中で

「ここに過去を顧み、深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」

と述べ、3年連続で「深い反省」に言及した。一方、天皇陛下に先立って式辞を述べた安倍晋三首相は、「戦争の惨禍を2度と繰り返してはならない」などと不戦の誓いを強調したものの、周辺諸国への加害責任には5年連続で言及しなかった。

例年の式典では、遺族代表による「追悼の辞」が終わり次第、厚労相が両陛下の席の前に進み一礼。それを合図に両陛下が立ち上がって式壇(ステージ)を向いて一礼し、退出する。

17年の式典では、天皇陛下は立ち上がった直後に客席に目をやった後、式壇を向いて両手を前に組んだ状態で、そのまま20秒以上動かない状態が続いた。式壇から見て天皇陛下の後方にいた皇后さまは、天皇陛下の横に進み出て何かを話しかけた。この直後、天皇陛下は式壇に一礼し、式場を退出した。退出後、記者席では、この異変に関してなのか、小声でささやき合う様子も見られた。

(略)












トランプ氏、白人至上主義団体を名指しで非難 / 記者に配られる事前の予定にはなく、...予告もないまま、突然ディプロマティックルームに連れて行かれた...。...正面のテレプロンプターを凝視し、用意された原稿を一字一句読むもので、トランプ氏の演説としてはかなり異例...














【「新国立」過労自殺に続き「東京会館」転落事故】大成建設に何が起きているのか 休日は「作業しない日」のはずが・・・ 凄惨な事故が続くようでは、「ワークライフバランスの確保」などと掲げた安倍政権の「働き方改革」も看板倒れだ(日刊ゲンダイ)

Nスペ「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」(8/14)。降伏後に5千人も死んだ樺太戦。終戦翌日、降伏を受け入れたはずの日本側が先制攻撃。武装解除を進めていた樺太師団には「樺太を死守せよ」と命令が下っていた。...しかし師団には戦力も援軍も無い。その命令によって住民たちは戦火へと追い込まれていった。....




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ボストンのホロコースト記念碑が壊された。今まで影に隠れていたアメリカの闇が一気に吹き出てる感じ。 / .....These acts of hatred are everywhere. We must resist.


2017年8月14日月曜日

(YouTube)唇をかみしめて 吉田拓郎


唇をかみしめて 吉田拓郎



「私は現在アメリカのバージニア州にいます。...現在バージニア州では白人至上主義グループとその反対グループが激しく衝突しております。この動画の兵士は国家の軍人や警察ではなく、武装した民間人です。もはや戦地の様相です。」 / BBCニュース - 極右に抗議する集団に車両突入 決定的瞬間を撮ったカメラマン / マコーリフ州知事は米国は移民によって作られた国だと強調し、移民やユダヤ人を排斥する差別主義者に対して「ここにお前の場所はない。帰れ。二度と来るな」 / トランプ 白人至上主義に言及せず / 「大統領、白人至上主義者からの支持が欲しいのですか?彼らを非難しないのですか?」という記者からの質問に答えずに退場するトランプ         








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池上彰の戦争を考えるSP 八千草薫「当時、私自身も本当を言うと『男に生まれなくてよかった』と思った。それを思った時に『自分はなんて非国民でなんて卑怯な人間だ』と思ってこれは死ぬまで誰にも言ってはいけないことだと思った。命を懸けて『(戦争を)やめる』とやっぱり言わなければいけない」

(YouTube)NHKスペシャル「731部隊の真実~エリート軍人と人体実験~」20170813 / (Dailymotion)吉永春子 制作「ある傷痕~魔の731部隊」



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2016.11.4に亡くなった元TBSのドキュメンタリー制作者、吉永春子さんを追悼し、彼女の制作した番組を放映するシリーズの1つ。
「ある傷痕~魔の731部隊」 (1976年)
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▼ケンカ売ってんでしょうね






2017年8月13日日曜日

(YouTube)夏をあきらめて 研ナオコ


夏をあきらめて 研ナオコ



「焼き場に立つ少年」撮影者の足跡 米カメラマンの妻、出版 「忘れないことが大切」 (『朝日新聞』2017-08-10)

『朝日新聞』2017-08-10


【朝まで生テレビでの発言で三浦瑠麗炎上中】「口利きは日本の政治につきもの。森友、加計はバッシングしやすかっただけ。相手がトヨタなら問題にされなかった」 小林よしのりさんも「相対主義が過ぎる」と批判。 / もう一つのおバカ丸出し → 「大日本帝国が..人権を極端に抑圧した総動員体制だったのは、1943-45年のせいぜい2年間ほど」 / こんな人物を珍重するメディアも異常である.... / 北原みのり「三浦瑠麗を真似してみた」〈週刊朝日2016年6月3日号〉 / TLがまるで”三浦まつり”に....







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▼コレ


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TLがミウラまつりみたいになってきた

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孤児たちの「遺言」(戦争孤児の会代表金田茉莉『朝日新聞』2017-08-10)国に棄てられて 戦後の闇に消えた 数知れない浮浪児... / NNNドキュメント「戦争孤児たちの遺言 地獄を生きた70年」(Dailymotion)    




戦争を語る2
孤児たちの「遺言」 戦争孤児の会代表 金田茉莉さん
(『朝日新聞』2017-08-10)

国に棄てられて
戦後の闇に消えた
数知れない浮浪児

戦争で親を奪われた戦争孤児は、戦後史の闇に埋もれた存在だ。
自身もその一人である金田茉莉さんは、30年にわたり、孤児たちの証言や資料を集め、未来への「遺言」として伝えてきた。
82歳になったいまも、日々パソコンに向かい、孤児の目でみた戦後日本の現実を書き残す。

- 若いころに右目の視力を失い、最近は左目も悪くされて、細かい字が読めないそうですね。それでも書き続ける。執念に似た思いを感じます。

「72年前の終戦の後、東京・上野の地下道は浮浪児であふれ、数え切れない子どもたちが餓死し、凍死しました。生きた証しすら残せず、『お母さん』とつぶやき、一人で死んでいった。いま書いている本の題は『なぜ浮浪児になったのか』にしようと思います。歴史の闇に埋もれた実態を明らかにして、汚名をそそぎたいのです」

- 汚名、とは?

「浮浪児と呼ばれた子どもの大半は戦争孤児です。学童疎開中に空襲で家族を失った子もたくさん路上にいました。だれも食べさせてくれないから、盗みを働くほかなかった。不潔だ、不良だと白い目でみられた。『浮浪児に食べ物をやらないで』という貼り紙まで街頭にありました」

- 学童疎開中なら小学生の年代です。親を失った子の心中を思うと、胸が苦しくなります。

「私が通っていた東京の国民学校では、宮城県に集団疎開中の小学生66人が、空襲で孤児になりました。私の家族は最初は行方不明で、『私の手足がなくなってもいいから生きていて』と毎日必死に祈りました。しかし4ヵ月後、母と姉の遺体が隅田川で見つかったと知らされて。妹の遺体は見つからぬままです。父は早くに病死していて、親戚宅を転々としました。全国の疎開孤児は、膨大な数だったと思います。孤児施設も極度に不足しており、引き取る親戚がなければ、農家などへ養子にだされました」

- いきなり、養子ですか。

「里親のもとで愛情深く育てられた人もいますが、戦後の混乱期で人心はすさんでいました。働き手を軍隊にとられ、どこも人手不足でした。こきつかわれ、学校に通えないことも珍しくない。文句を言う親も、行政のチェックも、何もありませんでした」

- 孤児たちはなぜ、路上をさまようようになったのでしょう。

「当時5年生だった男性は、集団疎開から戻った上野駅で迎えがなかったそうです。パニック状態になり、焼け跡で家族を捜しても見つからず、日が暮れて駅に戻りました。『生きていないと親に会えない』と思い、盗みを始めたと打ち明けてくれました。同じ境遇で一緒に地下道にいた3年生の男の子は、何日間も何も口にできず、『お母さん、どこにいるの』と言った翌日、隣で冷たくなっていた、と。いったん親戚や里親に引き取られても、重労働や虐待に耐えかねて家出をして、浮浪児になった子も数多くいました」

■    ■

- 国は戦争孤児を守ってくれなかったのでしょうか。

「戦後、戦争孤児の保護対策要綱を決め、集団合宿教育所を全国につくる方針を示しました。しかし、予算も規模もまったく不十分でした。見かねた民間の篤志家や施設が私財をなげうち、孤児を保護したものの追いつかず、街に浮浪児があふれました」

- 国の支援不足が浮浪児を生んだ、と。

「そうです。戦争孤児は、国に棄てられた。私はそう思っています。20代のころに、当時の厚生省(現厚生労働省)に戦没者遺族への補償を受けられないか、問い合わせました。生活苦で、わらにもすがる思いで。でも『軍人・軍属の遺族ではないので、対象ではない』と言われた。同じ戦争犠牲者でも、民間の空襲被害者は差別されているのです」

- どう、国は対処すべきだったと思いますか。

「学童疎開は国策として実施されたのに、戦争に負けると孤児たちは放り出されました。せめて義務教育が終わるまで、国の責任で養育すべきでした。食糧難で窮乏している親戚に託したり、急場しのぎに養子に出したりという対応は、無理があったのです」

- 戦争孤児の総数は、正確にはわかっていないのでしょうか。

「政府は1946年の帝国議会で、戦争孤児の総数を『3千名前後』と答弁しました。混乱期とはいえ、あまりの過小評価です。48年にようやく厚生省が全国一斉調査をして、孤児は12万人以上いたことがわかりました。病死などとされたその他8万人余りも内訳は不明で、実質的には大半が戦争孤児だと私は考えています。しかもこの調査は、養子になった孤児や沖縄県の孤児、路上にいた浮浪児は含まれていません。実数は、さらに多かったと思います」

■   ■

- 路上の孤児は排除、取り締まりの対象になっていきます。

「狩り込み、と呼ばれた行政による強制的な保護収容では、『1匹、2匹』と動物のように数えられました。当時10歳で浮浪児となり、上野駅で狩り込みに捕まった女性の証言を聞きました。30人ほどの子どもがトラックの荷台にのせられ、そのまま夜の山奥に『捨てられた』そうです」

- 信じがたいできごとです。

「地下道で餓死しても、見て見ぬふりをせざるを得なかった時代。人の命など、どうでもよかったのだと思います。孤児施設も多くが食糧不足で劣悪な環境でした。当時6歳だった女性は『死体の横に寝かされた』と証言しています。さらにこの女性は、施設の柱に何度も自分で頭を打ちつける何人もの子の姿を目にしたそうです。心に異変をきたしていたのでしょう。元気な子どもは、施設から逃げました」

- 地獄を見て、心に深い傷を負ったのですね。

「親戚の家や養子先で成長した子どもも、心を殺して生きなければなりませんでした。私は親戚から『野良犬』『出て行け』とののしられ、『親と一緒に死んでくれたら』との陰口も耳にしました。刃物が胸に刺さる思いでした。腐った魚の目、と気味悪がられました。心が死んでいたと思います」

- 孤児たちは、つらい記憶に長く口を閉ざしてきました。

語るには過去が重すぎました。世間の目も怖い。親戚や里親との関係を語れば、『そんなことあるわけがない』『お世話になったのに』と批判されます。私自身、思い出すのも嫌で、夫や子どもにも長く話せませんでした」

- それでも、50代になって戦争孤児の調査に乗り出しました。

「大病をしていつ死ぬかわからないと痛感し、命あるうちに記録を残さねばと思いました。疎開関係の資料や新聞記事などを手がかりに連絡先を調べ、一人一人に手紙を出しました。何人もの人に『話したくない』と断られて。聞き取り中に当時を思い出し、手足が震えだした人もいます。90年代初めにアンケートをとった22人のうち18人が自殺を考えたと答えています。弟が自殺し、自分も青酸カリを持ち歩いていたという男性もいた。私もそうですが、親と一緒に死んだほうがよかったという思いが、消えないのです」

- なぜ、多くの人が重い過去を語り始めたのでしょうか。

「浮浪児の経験や親戚との関係も含めて、人間の真実を伝えない限り、なぜ孤児が浮浪児になったかを正しく説明できません。結果として、国の責任もうやむやにされてしまいかねません」

■   ■

いま戦争の足音
平和失われたら
子の命守れない

- 戦争孤児は、戦争を実体験した最後の世代でもあります。

「当時10歳前後だった孤児たちも、すでに80代です。戦争の体験を語り継ぐ催しを力を合わせて開き、定期的に交流してきた『戦争孤児の会』のメンバーも、病気や高齢で半数が参加が難しくなり、この8月で活動を終えます。残された時間は多くありません」

- 日本の未来を生きる世代に、何を伝えたいですか。

「特定秘密保護法、安全保障法制、共謀罪など、危うい法律が次々にできています。戦争を体験した世代には、戦争の足音が聞こえる。もし、いまの大人が過去の教訓を忘れ、日本が戦争に巻き込まれれば、必ずまた戦争孤児が生まれます。国は都合の悪いデータは隠してしまうでしょう」

「いったん平和が失われたら、子どもの命は守れない。いまが正念場です。戦争孤児の問題は過去のできごとではなく、未来の子どもたちの問題です。終わりなき悲しみを子どもたちが二度と味わうことがないように、最後のチャンスと思って、伝えたい」

- 若い世代に届きますか。

「世界では、いまも爆撃の下で子どもたちが逃げ惑い、食べ物がなく死んでいく。なのに多くの日本人は、戦争は過去の歴史で絶対起きないと思っている。くらしに追われてゆとりがなく、身の回りのこと以外、あまり考えなくなっている気がします。でも、希望は捨てていません。特に若い親たちはちゃんと耳を傾けてくれて、戦争とは何かを考える芽が出てきている。体験を書き残しておけば、いつか、だれかが気づき、警鐘を鳴らしてくれると信じています」

 (聞き手・編集委員 清川卓史)





2017年8月12日土曜日

今週のインスタ投稿画像 (過去画像) 建仁寺 建仁寺法堂双龍図 下鴨納涼古書まつり インド大使館まえのサルスベリ

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次男の引っ越し準備 & 中華で慰労会 2017-08-12

8月12日、くもり一時雨、時々はれ
今日は次男が横浜の家を出て東京暮らしをするというので、どんなところに住むのか見に行った。今日がメインの家具やら家電品が届く日だったので、一応名目は引っ越し準備のお手伝い。

いやいや行ってみて驚いた。
昔、東京の街歩きを始めたころ、丹念に歩き廻った場所で、樋口一葉の最後の住居跡のほんの近く、数分もかからない場所だった。
一葉の、いわゆる「水の上日記」の時代、人気のでる時代、奇跡の14カ月と呼ばれる最後の2年を過ごす場所だ。
「水の上」というだけあって池の畔(上にもかかってたのか)に家屋があり、背後に崖があり・・・・。その崖はいまでもビルの背後に見えている。

本郷三丁目から菊坂を下りて、一葉が龍泉寺に移る前に住んでいた旧居跡や有名な伊勢屋質店を通って、菊坂下から白山通りに出たところすぐのところだ。

そういえば、一葉の略年譜を「樋口一葉日記抄」として掲載してたのに、どういう訳か途中で途切れてしまっている。これ、続けなきゃね。原稿はほぼ出来上がってるのに。

ちなみに、水の上日記のスタートがコチラだった ↓
樋口一葉日記抄 明治27年(1894)6月(22歳) 「唯目の前の苦をのがるゝが為に、婦女の身として尤も尊ぶべきこの操をいかにして破らんや。」(樋口一葉「水の上日記」)


・・・と、こういうわけで、夕方まで引っ越し準備で東京にいたので、地元横浜に戻って中華で軽く慰労会。
ま、要するに、なんか口実を見つけてはみんなで飲みたいということですが・・・。






2017年8月11日金曜日

(YouTube)雨が空から降れば 小室等 坂崎幸之助


雨が空から降れば 小室等 坂崎幸之助


久しぶりの家族集合 食べて飲んでおしゃべりして 2017-08-11

8月11日、くもり(終日、傘が要るか要らないかぎりぎりのところの雨)
今日は、長男家族を入れての久しぶりの家族集合。
出勤すると言ってた次男も何とか出席。
ワタクシも、トマトのサラダとキャベツの千切りのお手伝い。
よく食べて飲んで、そしてたくさんのおしゃべりをした。





▼お昼にイッパイ食べたので、晩ご飯はぬき。
ただし、長男からフランス土産のチョコレートを貰ったので、こっそり飲んでる。
7月、インドとフランスに出張したらしい。

明治39年(1906)10月 悪税反対運動の開始 山県有朋「帝国国防方針私案」を上奏 二葉亭四迷「其面影」(「東京朝日」~12月31日、78回) 二葉亭四迷の軌跡 池辺三山 内田魯庵   

京都 下鴨納涼古書まつり(過去画像2011-08-13)
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明治39年(1906)
10月
・鴨緑江・豆満江森林経営共同約款調印
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・統監府嘱託・黒竜会主幹内田良平、一進会(韓国内で併合推進唱える)顧問となる。
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・北洋常備軍、彰徳で軍事演習(彰徳会操)
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・悪税反対運動の開始。
商業会議所連合会(上層ブルジョワジーの利益代表、中野武営指導)、「税法改廃に関する建議」(3悪法廃止、塩専売・通行税・織物消費税)を政府に提出。
織物同業組合は日露戦争下で既に織物消費税反対運動展開。
更に、この年2月、西陣・八王子など主要産地の同業組合長名で同税改革陳情書を政府に提出。
9月、京都・東京・名古屋3組合が中心となり「織物消費税廃止同盟大会」を京都で開催。
11月、1道3府14県の塩、醤油・味噌醸造、塩魚の業者が塩専売廃止同盟結成。連合会は、業界の要請のみならず、労賃騰貴による企業の収益減、物価騰貴による労働争議を防ぐ意図もある。連合会は前年10月の大会決議で行政費節約・税制整理を要望。

中野武営:
明治14年政変で大隈派河野敏鎌に従い農商務省権少書記官を辞任、改進党結成に参画。初期議会で予算委員となり藩閥政府と闘う。明治38年8月初代商業会議所会頭渋沢栄一(東京商業会議所会頭)の後を継ぎ、副会頭から会頭となる。前年(明治38年)10月の大会決議、この月の建議など、政府との対決姿勢を示す。
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・山県有朋、「帝国国防方針私案」を明治天皇に上奏。
翌年2月、帝国国防方針・用兵綱領として具体化される。
内容は、ロシア、アメリカ、フランスの順で仮想敵国を定めて軍備を拡張する、というもの。そのための膨大な経費は、日露戦争時の非常特別税を戦後も継続し、さらに、間接税などの増税を実施することでまかなわれた。戦後不況のなかで、これらの政策が民衆を苦しめることになる。
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・この月より1年間で全国私鉄17社買収、4億5千万円。
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・下郷製紙所、組織を変更し中之島製紙株式会社と改称。資本金30万円。
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・神戸製糖株式会社創立。
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・大阪活版工技工組合結成。
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・大阪盲人会設立。
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・大日本労働至誠会結成。
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・南海晒粉株式会社創立(和歌山)。資本金20万円。
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・寶田石油会社、新津鉱業・長岡石油・帝国石油・小千谷石油・五菱組など33の会社組合を買収合併。資本金400万円。
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・二葉亭四迷「其面影(そのおもかげ)」(「東京朝日」~12月31日、78回)。
「浮雲」(明治20~22年)中断以来17年ぶりの小説。「「浮雲」の惰力的労作である…」(内田魯庵)。

■二葉亭の軌跡
明治36年7月、北京の警務学堂の提調を辞して日本に帰国。
その1年前、東京外国語学校と海軍大学の露語教授を辞して、国の運命を担うような事業を志し、ハルビンや北京に流寓し、結局何一つ成就することなく東京に帰って来た。
彼には前妻つねとの間に2人の子供があり、後妻りうと、母志津と一緒に、本郷の西片町10番地に住んでいた。
帰国後、ロシアや中国事情の論評家として新聞に職を得たいと思ったが、思わしい口がなかった。またロシアの極東政策を研究した「露勢東漸考」という著述をしようと、プランを作り、友人坪内逍遥に出版社の紹介を依頼したが、引き受けてくれる本屋はなかった。結局、以前のように文学作品の翻訳で収入を得る外なく、ツルゲーネフの「煙」を冨山房から出す約束をし、途中まで翻訳したが、これも中絶するに至った。彼は母志津の心を安んじることを常に念頭に置いていたが、母は大変我儘で、生活が苦しくなると事ごとに不平やあてこすりを言って息子を厭からせた。その上、彼は経済観念に乏しく、また常に理想的なことを考えていなから、それをやり通すような生活者としての忍耐心に乏しかったから、家計はいよいよ苦しくなった。
この困難な時期に彼のよい相談相手となったのは友人の坪内逍遥と内田魯庵であった。

明治37年2月、日露戦争が始まると、「大阪朝日新聞」記者内藤湖南が、優秀なロシア事情通で、かつ文士でもある二葉亭四迷を思い出し、彼を社員として迎えることを首脳部に建議して、容れられた。
「大阪朝日新聞」入社は二葉亭四迷にとって救いであった。月給100円で、東京在住のまま、ロシアの新聞雑誌から適当な材料を得て原稿を書き送るというのか条件であった。名目は「東亜経営問題の研究」であった。
彼は何度か原稿を書いたが、その原稿は研究論文めいた難かしいもので、派手な戦勝気分に満ちていた新聞の記事としてはふさわしくないものが多かった。そのため、彼の原稿はほとんど新聞に載せられることがなかった。彼は不愉快な日を送るようになり、新聞社もまた彼に不満であった。

この年10月、彼は脳貧血の気味で東京郊外、北豊島郡滝野川村大字田端に転居した。
その間、彼は「朝日」以外に内職として文学作品の翻訳を発表するようになった。それはトルストイの露土戦争を描いた小説「つつを枕」、ガルシンの「四日間」等であった。そういう社外の活動が「大阪朝日新聞」に分ると、彼の立場は一層不利になり、会長村山龍平は彼をやめさせようと考えるに至った。

明治38年3月、彼は、「東京朝日新聞」主筆、池辺三山から逢って話したいという手紙を受けとった。三山によると、村山とともに「朝日新聞」創設者である上野利一社長は二葉亭四迷を引きとめたい意向であるが、村山が中々承知しないので困っている、とのことであった。二葉亭四迷はいま「朝日」をやめると生活に困ることになるので、1、2カ月の猶予をもらい、その間に自分が役立つかどうかを試してもらいたいと言って、三山に取りなしを頼んだ。三山は努力を約し、今後「東京朝日」のために原稿を聾いてはどうかと提案した。
結局、三山の努力によって、二葉亭四迷は新聞社の席を失うことなく、以後「東京朝日」の仕事をすることになった。彼は深く三山を徳として、その人柄に服した。

■池辺三山
池辺三山(吉太郎)は西南戦争により刑死した熊本の人、池辺吉十郎の子。
吉太郎は少年時代に漢学を修め、10歳の頃から詩文の才によって知られていた。
17歳で上京、中村敬宇の同人社に学び、後、福沢諭吉の慶応義塾に転じた。
その後、熊本の旧藩主細川家の東京における藩塾、有斐栄舎の舎監となったが、明治21年、数え25歳のとき、大阪に移って東海散士柴四朗とともに雑誌「経世評論」を発行し文筆に生きることとなった。
明治25年、陸羯南に才を認められて新聞「日本」に客員として執筆しはじめ、外交問題、時事問題に精通することで知られた。
またこの年(明治25年)、旧藩主細川侯爵家の長子護成の留学に附き添ってフランスに赴き、数年滞在した。その間日清戦争の時期にあたって鉄崑崙の筆名で、日清戦争のヨーロッパにおける反響を新聞「日本」に書き好評を博した。
明治30年9月、「大阪朝日」主筆の高橋健三が、松方大隈連合内閣の書記官長となって、「朝日」を去った。高橋健三は、明治22年、二葉亭四迷が「浮雲」第三篇を最後として小説家たることを諦め、内閣官報局の雇員となったとき、そこの長官をしていた。彼は新聞「日本」の創立にも関係があり、「大阪朝日」の中心人物であった。村山龍平は高橋のあと池辺三山を招き主筆とした。彼が主筆となって以後、「朝日新聞」の紙面はとみに活気を加えた。"

明治31年、池辺は「東京朝日」に移り、西村天囚(晴彦)を継いで主筆となった。
明治34年、北清事変直後の中国・朝鮮の視察旅行をしたので、二葉亭四迷の ロシアや中国に関する知識には敬意を抱いていた。
池辺三山は、初めから二葉亭四迷を文士として考えていた。彼が長谷川辰之助として時局を論じても、新聞の役に立つものが出来る筈がない、というのが彼の意見であった。実際、明治38年1月から「大阪朝日」に連載して中絶した「満洲実業案内」という記事は、新聞記事というよりは「参謀本部か外務省」に調査書類として提出するにふさわしいような詳細極まる固苦しいものであった。三山は、二葉亭四迷がやめさせられそうになったとき、「大阪で断念してしまえば朝日が二葉亭四迷を失う事になり、又長谷川君に断念せらるると私が友誼甲斐ない事となる」と考えて村山龍平と二葉亭との間に立って努力し、どうにか成功した。

明治38年6月頃から二葉亭四迷の原稿が「東京朝日」に載るようになった。
戦争の結果起る事態に備えて彼は「樺太の森林」「樺太の炭鉱」「露国革命党」など啓蒙的な記事を続けて書いた。三山は彼の内職なる文学作品翻訳も「社の仕事が留守にならぬ範囲でするなら構った事なし」と言ったので、彼はゴーリキーやガルシンやゴーゴリの翻訳を公けにした。また翌年7月には「世界語」という題のエスペラントの解説書を、西本翠蔭の経営する彩雲閣から出版した。この本は思いがけず版を重ねて二葉亭を潤した。

この年(明治39年)、ロシア事情の解説も用がなくなり、二葉亭は文学ものの翻訳や小品文などを「朝日新聞」に暫くようになった。
5月、三山は、「東京朝日」に連載中の柳川春葉「もつれ糸」のあとの小説を二葉亭四迷に書かせようと考えはじめた。小説でも書くのでなければ、二葉亭四迷という高い給料を取る記者の地位は危くなることを池辺は気づかった。その使いに立って二葉亭を訪問したのは弓削田精一であった。

二葉亭四迷は、自分には小説を書く才能がなく、また小説を書くことの苦しみに直面したくないと思っていた。しかしこの明治39年春、二葉亭が以前発表した小説「浮雲」や翻訳「あひゞき」「片恋」などに近代的な写実文学の典型を見出していた島崎藤村が「破戒」を出版し、「あひゞき」の影響を受けた国木田独歩が短篇集「運命」によって、新文学の代表的な作家としての地位を獲得していた。
弓削田精一は二葉亭に小説を書くことを奨め、政治と文学というものが二葉亭にとって両立するかしないかという議論を4時間あまりも続けた。

結局、その日は話がまとまらず、弓削田はまた同じ話を繰り返すつもりで再度訪ねて行くと、意外にも二葉亭は小説を書くことを承諾した。
弓削田は、小説家として世に立ちたくない二葉亭の気特が分っていたので、一面では大変気の毒なことをしたように感じた。
20年近く以前に、二葉亭が自分の手にあまると思って中絶した「浮雲」の系統を引く口語文体が、明治36年に紅葉が没して以後、新しい小説文体として次第に広く行われるようになり、その文体によって島崎藤村、夏目漱石、国木田独歩が仕事をして注目を浴びていた。どうしても書かなければならないのなら、自分もやって見ようと、二葉亭は考えた。

彼には一つの腹案があった。
日露戦争後、表面には出ないが社会の大きな問題となっていた戦争未亡人のことを小説に描いて見たらと考えていた。彼は、体面のために個人の人権が無視される未亡人問題を、そのまま放置することはきなかった。未亡人は再婚すべしというのが彼の意見であった。彼は小説家としては認められたくなかったが、この問題は小説として書くべきものである、と考えていた。
依頼を受けて承諾した5月から8月まで、彼は小説の構想を練った。
自然主義が起って、天外、花袋、藤村、独歩の作品がその名で論議されていた。肉体の自然を尊重するこの文芸思潮を取り入れて未亡人問題を描いてもよさそうであった。二葉亭は戦争未亡人が肉体の慾に負けて妻のある男と通じる小説を書こうと考え、内田魯庵に何度か題名について相談した末、「茶筅髪(ちやせんがみ)」というのに決めた。そして真の Heart を持った女主人公が、弱気のために偽瞞的を行為をする男と関係した結果、気が狂って破滅する、という筋を作った。そして彼は8月頃その小説を書き出したが、結局彼はその構想を棄てた。
女主人公を戦争と関係ない未亡人に変え、小夜子というその女主人公が姉の夫なる小野哲也と関係するという筋を作った。

小説発表後、内田魯庵は、二葉亭がこの春から半年の間、この作品のことで苦しんで来たの知っていたので、祝いの手紙を送ると、翌日、二葉亭は魯庵に礼状を出した。

主人公小野哲也は、無理解な妻と姑に苦しめられ、義妹の小夜子と親しくなるが、その結果小夜子は家を出て千葉の教会へ走る。小野哲也の方は家を棄て、満洲へ逃亡してうらぶれた生活をする、というのがその結末であった。

内田魯庵は、二葉亭が20年ぶりの作品を書いている間じゅう、「恰も処女作を発表する場合と同じ疑懼心が手伝つて、眼が窪み肉が痩せるほど苦辛し、其間は全く訪客を謝絶し、家人が室に入るをすら禁じ、眼が血走り顔色が蒼くなるまで全力を傾注し、千鍛万練して」書き改めて来たのを知っていた。また、二葉亭は毎日の締切時間に遅れそうになるので、社からは度々社員を催促にやったが、その仕事ぶりを見たものは誰も気の毒がって催促の言葉をロにしかれた、ということであった。池辺三山はそれを評して「造物主が天地万物を産み出す時の苦しみ」だと言った。この作品に苦心している間じゅう、二葉亭四迷は二階の書斎で咳をしていた。それを母の志津は気にしていたが、すでに彼は胸を冒されはじめていた。

にもかかわらず、この作品を通読した内田魯庵は、「『浮雲』の若々しさに引換へて極めて老熟して来ただけ或る一種の臭みを常びてゐた。言換へると『浮雲』の描写は直線的に極めて鋭く、色彩や情趣に欠けてゐる代りには露西亜の作風の新しい匂ひがあった。之に反して『其面影』の描写は婉曲に生温く、花やかな情味に富んでゐる代りに新らしい生気を欠いてゐた。幸田露伴は曾て『浮雲』を評して地質の断面図を見るやうだと云ったが、『其面影』は断面図の代りに横浜出来の輸出向きの美人画を憶出させた。更に繰返すと『其面影』の面白味は近代人の命の遣取をする苦みの面白味でなくて、渋い意気な俗曲的の面白味」であると感じられた。

坪内逍遥は二葉亭から「其面影」についての批評を求められたとき、「『浮雲』とは遥かに洗練された点で先ず違う」と言った。二葉亭は、逍遥が満足していないらしいのをすぐ感じとって、うんざりしたような顔になった。

夏目漱石はこの作品が翌明治40年8月に本になったとき買って通読し「大いに感服」し、賞讃の言葉を述べた手紙を二葉亭に送った。

専門家の間では、一般的に、二葉亭の新作に対する期待が大き過ぎたためか、この作品はあまり好評ではなかった。しかし、一般読者には大変人気があった。そして、二葉亭四迷は小説家としての華やかな存在であると認められるようになった。
(『日本文壇史』第10巻による)

なお、
関川夏央『二葉亭四迷の明治四十一年』(文春文庫)が詳しい。




ケンミンショーで新潟県見てたけど、静岡県を長いとか言ってた自分がアホに思える程、新潟県は長かったww......

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(略)




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