2018年5月22日火曜日

(YouTube) 八神純子「時代」


「“高プロ” で長時間労働野放し」過労死遺族が座り込み(NHK); 全国過労死を考える家族の会、代表寺西笑子さん。働き方改革は、労働者の声を反映せずにすすめられている。全国から家族の会の代表者が来ている。安倍総理に聞いていただくしかない。でも、まだ面会について返事をもらえていない。今日中に返事をしてほしいという意思表示として、座り込みをします。






















柳瀬は日大アメフト部の青年の態度を見てどう感じたろうか? → 加計新文書 元秘書官との面談の詳細も記載(NHK); はじめに柳瀬氏の発言として、「獣医学部新設の話は総理案件となっている。なんとか実現をと考えているので、今回内閣府にも話を聞きに行ってもらった」と記されています。


2018年5月21日月曜日

65歳以上の介護保険料 制度開始から倍に(日テレ); 今年度、65歳以上の人が納めている介護保険料の平均は、ひと月5869円で、制度が始まった18年前のおよそ2倍になったことが厚生労働省のまとめでわかった。.....2040年度の介護保険料は、平均でおよそ9200円になると推計している。


24歳で過労自殺した電通社員の亡くなる1ヶ月前のスケジュール。27日間で午前2時以降の退社が3日に1度、徹夜が1.5日に1度。年間4000時間ほど働いていた。藤本正『ドキュメント「自殺過労死」裁判』より 授業で見せると学生は絶句する。条件さえ揃えばこんな働かせ方をも合法化する #高プロ は異常


拉致問題解決へ、日本が直接交渉を「動かねば手遅れに」(朝日新聞); 横田めぐみさんの母は数年前に安倍首相に対して金正恩委員長と直接会って「目を見て、しっかりと相対で話していただかないと解決しないと思いますよ」と伝えたが、首相は「もちろんそう思っておりますが、それは今ではありません」で、今日も未解決





加計学園問題の愛媛県新文書に関し、加計学園と安倍首相が深すぎる墓穴を掘ってしまう (バザップ!) 破棄したはずの記録を「調べた」ようです / 玉川徹「加計と会って奢ったり奢られたりしているから、野党は首相のあっせん利得罪を追及すべき」 青木理「行政の公正公平がねじ曲げられ、政治の中枢がおかしくなり、新文書が次々と出ても否定する。政治の根本のモラルが壊され、誰も信じられなくなる」 大谷昭宏「これでもまだ否定するのであれば、安倍首相自らが加計孝太郎理事長と中村知事の証人喚問を求めるべきだ」 / NHK19時ニュースはトップで加計新文書。2015年2月25日、加計理事長が安倍首相と15分ほど面談。.....理事長は「獣医学部空白地帯の今治市に設置予定の獣医学部では、国際水準の獣医学部を目ざす」と説明、首相は「そういう新しい獣医大学の考えはいいね」とコメントした。 / 加計の計画は2017年1月まで知らなかった、という首相答弁を全否定する内容..... / 「首相と加計理事長が会食、大学設置の話」愛媛県新文書:朝日新聞 ; 「関係業者との接触に当たっては供応接待を受けること、職務に関連して贈物や便宜供与を受けること等であって国民の疑惑を招くような行為をしてはならない」国務大臣、副大臣及び大臣政務官規範

破棄したはずの記録を「調べた」安倍晋三





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▼誰も彼の言葉(人格も)信用していない






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2018年5月20日日曜日

大船フラワーセンター ハナショウブが咲き始めた 2018-05-20

5月20日、はれ
このところの夏日、真夏日とは違って、うんと過ごしやすいサラっとした気候だった。

いろいろあったので疲れ気味だったけど、こんないいお天気なのに出かけない手はないね。と言っても、混んでるのもイヤだし、大船フラワーセンターに行くことにした。

ぼたん、しゃくやくは完全に終り、
バラが終盤を迎えている。
アジサイはまだ(もともとそんなに多くない)だが、
ハナショウブが水を引いていない菖蒲田に咲き始めていた。
なかなかイイゾ!







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カンヌ最高賞・是枝監督「万引き家族」が問う、いびつな家族のきずな / 是枝裕和監督インタビュー ; 血が混ざってこそ家族なのか、日本の家族は崩壊したが… (中央日報);「日本は経済不況で階層間の両極化が進んだ。政府は貧困層を助ける代わりに失敗者として烙印を押し、貧困を個人の責任として処理している。映画の中の家族がその代表的な例だ」 「共同体文化が崩壊して家族が崩壊している。多様性を受け入れるほど成熟しておらず、ますます地域主義に傾倒していって、残ったのは国粋主義だけだった。日本が歴史を認めない根っこがここにある。アジア近隣諸国に申し訳ない気持ちだ。日本もドイツのように謝らなければならない。だが、同じ政権がずっと執権することによって私たちは多くの希望を失っている」



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「初めて来た時は30代だったのに、いつの間にか50代になりました。カンヌに来るたびに今でもワクワクします」

第71回カンヌ映画祭が中盤に差し掛かった15日(現地時間)、現地のホテルで会った是枝裕和監督(56)の言葉だ。2001年映画『DISTANCE』でカンヌを初めて訪れた次世代監督はいつのまにか日本を代表する巨匠になった。パルム・ドール賞候補であるカンヌ映画祭コンペティション部門への正式出品は今回だけで5度目になる。

新作『万引き家族』は、この日まで公開されたコンペティション部門11本(全体21本)の中で最高の評価を受けている。英字メディア「Screen Daily(デイリースクリーン)」の星取表(jury grid)では平均3.2点(4点満点)をつけ、フランスのジャン・リュック・ゴダール(3点)や中国のジャ・ジャンクー(2.9点)らを抜いている。また、別のメディア「Variety(バラエティー)」は「さらに成熟し、心を盗む家族映画復帰作」と好評した。公式上映では8分余りのスタンディングオベーションとともに涙を拭う観客も多く見られた。

映画は、初枝(樹木希林扮)の年金と万引きで生計を立てている家族が、寒さに震えていた幼い少女(佐々木みゆ扮)を家に連れてきたことから始まる物語を描いている。今にも崩れそうな狭い家で築いた仲睦まじい彼らの日常に突然の危機が襲う。是枝監督は、5年前のカンヌ国際映画祭審査員賞作『そして父になる』(2013年)で投げかけた問いをもう一度取り上げた。家族を家族たらしめているのは血か、一緒に送った時間か--。ここに共同体が崩壊した日本社会の現実を重ねた。

--物語の着眼となった契機は。

「数年前に、日本では亡くなった親の年金を受け取るために死亡届を出さない詐欺事件が社会的に大きな怒りを買った。はるかに深刻な犯罪も多いのに、人々はなぜこのような軽犯罪にそこまで怒ったのか、深く考えることになった」

--血の混ざらない家族について描いている。

「日本では今も家族は『血縁』というイメージが固定化されている。特に、2011年大地震以降、このような家族の絆を大げさに強調する雰囲気について疑問を感じていた。国際的な状況もある。カンヌで会った多くの人々が、私に『私は里子なんだ』『私には養子がいる』と打ち明ける」

--主人公は社会のセーフティネットから疎外されている。

「日本は経済不況で階層間の両極化が進んだ。政府は貧困層を助ける代わりに失敗者として烙印を押し、貧困を個人の責任として処理している。映画の中の家族がその代表的な例だ」

--経済不況が日本をどのように変えたか。

「共同体文化が崩壊して家族が崩壊している。多様性を受け入れるほど成熟しておらず、ますます地域主義に傾倒していって、残ったのは国粋主義だけだった。日本が歴史を認めない根っこがここにある。アジア近隣諸国に申し訳ない気持ちだ。日本もドイツのように謝らなければならない。だが、同じ政権がずっと執権することによって私たちは多くの希望を失っている」

--前作と同じく、父子関係が印象的だ。

「映画で少年の祥太(城桧吏扮)は父(リリー・フランキー扮)と呼んでいた人がそれほど信じられないことに気づく。私の父は典型的な会社員だったが、私にも似たような感情があった。親に対する確固たる印象が崩れる瞬間、大人になるのだということを言いたかった」

--本当の家族とは。

「決まった答えも定義もない。だが、この映画に関していうなら、永遠に一緒にいられなくても、共に過ごした時間がそれぞれの人生の中に深く刻印されること、それ自体が家族なのではないかと思う」

(略)

▼ネトウヨ発狂中


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駐日イスラエル大使の論法 ; 「日本軍が南京で殺した中国人は便衣兵(私服を着た戦闘員)だから問題ないし虐殺ではない」と決めつける論法と同じ。古今東西、市民の虐殺を批判された側は、みな同じ図式の論法を使う。 「死んだ人間は全員、こちらに危害を加える戦闘員だった」「だから殺すのは自衛行為」




菅官房長官、辺野古区長らと面会せず 補助金交付されず戸惑い(沖縄タイムズ); 名護市長がかわって、国の態度が変わった。 つまり、新基地容認の市長誕生で、三区の同意はもういらない。 金は名護市に。三区に直接交付する必要はもうない。


NHKスペシャル「日本の諜報」。アメリカNSAの機密ファイルの中に、横田基地の中に新たに通信傍受機器の製造施設がつくられ、そこで製造された機器がアフガニスタンやイラクでの米軍の戦争を支えたという記述が。しかも、施設の建設費用のほとんどは日本政府が支払ったという。


「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート26 (明治43年~大正5年)

大船フラワーセンター
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明治43年
東京市養育院
民報社解散後、次の仕事として、明治43年7月、卓(42歳)は東京市養育院に就職する。異母弟利鎌の年譜に、「明治四十三年七月、姉卓子養育院に勤務」とある。
遺産もほとんど使い果たし、寛之助・利鎌の異母弟2人、九二四郎一家を養うためには働く必要があった。

東京市養育院は、渋沢栄一が生涯力をそそいだ福祉施設である。ロシア皇太子来日をまえに、浮浪者や窮民の救済施設の必要が論じられ、初め東京会議所付養育院として明治5年ごろに開設。ついで府の施設に移り、渋沢は明治7年からその責任者になる。その後、府の援助が打ち切られると私財を投入し、資産家にも寄付を呼びかけて、私的施設として維持した。明治23年に市営になってからも、昭和6年に亡くなるまで、院長として指導的役割をはたし、日本で初の福祉施設の充実に力を注ぎ続けた。

その間、養育院は、年々増える捨て子や孤児、行き倒れの病人ら窮民を収容するため、移転をかさねて施設を拡充していく。はじめは病人も大人も子供も一緒だった収容内容を、児童・青少年と大人を分離したり、その青少年のなかでも犯罪を犯した者の矯正教育をおこなう感化院や、病院・療養施設を分離するなど、機能を整備していった。明治42年、大人も子供も同じ施設に入っていたそれまでの本体から、児童の施設を分離し、病気や健康薄弱な児童のための安房臨界学園と、健康な学齢児童のための巣鴨分院を開設した。

卓はこの巣鴨分院に就職した。「明治四十三年には東京の養育院へ行って孤児のお母さんのようになりきってしまった」(『婦人世界』昭和7年9月号)と後年回想している。そこで彼女は、約8年間、50歳ごろまで働いた。
『婦人世界』の談話は、「今ではその孤児達がそれぞれ大きくなり、中には医者の細君になったり子持ちになったりして、今尚那美さんをお母さんお母さんと慕って寄ってくる」と続く(雑誌記事のタイトルは、「草枕のヒロイン - 那美さんを訪ふの記」で、卓のことを「那美さん」と書いている。)

明治45年
辛亥革命
1911年(明治44年)10月10日の武昌蜂起をきっかけに各地で清国政府からの独立宣言が相次ぎ、年末までにはその趨勢が決まった。翌1912年1月1日、孫文が臨時大統領に就任し、中華民国の成立を宣言する。辛亥革命である。
滔天は、アメリカからヨーロッパを経て帰ってきた孫文を香港で迎え、南京に同道して1月1日の式典に立ち会っている。卓もその式典に国賓として招待されたらしい(『玉名郡小天郷土史』)が、卓は行かなかった。養育院の仕事もあったが、旅費がなかった。

その少し後、大正3年の利鎌の年譜には次のように書かれている。
「一家貧窮。出入りの一米屋に三百円の支払いをためたりといえば、当時窮迫の一端を知るべし」。
辛亥革命の年の利鎌の年譜には、卓の残したと思われる言葉がある。
「この年、第一次シナ革命成り、一族年来の宿志ようやくとげられしも、物質的にむくいられること少なし」。

大正5年
漱石との再会 異母弟利鎌の橋渡し
小天での出会いから18年、熊本五高教授だった漱石は今や高名な作家、卓は小天の名家のお嬢さんから中国革命の支援者、孤児院の保母に変わっていた。もはや接点の持ちようもないほどに隔たった2人の橋渡しとなったのは、異母弟利鎌であった。
利鎌と漱石は、不思議に縁があった。

利鎌年譜の明治32年の項。
「生後いくぱくもなき幼少の故人〔利鎌〕が、姉卓子に抱かれて漱石等に愛撫され、後年その門に親しく出入りせるも亦奇縁というべし」。
利鎌は案山子と愛人林はなの間に生まれ、前田家に入籍されて育った。彼が生まれた当時、卓は永塩亥太郎と別れ、小天に戻っていて、彼ら親子の面倒をみた。そして、利鎌9歳のとき、生母や兄覚之助とともに東京に呼び寄せ一緒に暮らした。その後、利鎌母子は滔天の家に同居したり、母子3人で暮らしたあと、15歳から再び卓と同居する。

大正4年(1915年)、利鎌(17歳)が一高に入学した年に彼女の養子となった。卓の養子になり一高に入学したことが、利鎌に漱石に会う決心をさせた。
卓は森田草平のインタビューで、「あれはわたくしが上京してからもう十年も経った後のことでございました。利鎌が高等学校へ入って、早稲田のお宅へ出入りさせていただくようになってから、わたくしも二・三度お伺いしました」(『漱石全集』月報)と語っている。まず利鎌が漱石に会いに行き、そして卓を連れて行った。

大正5年4月12日付けの利鎌宛の漱石の手紙。

拝復私はあなたの名前を忘れていました。前田利鎌という名前を眺めているうちに若しやあの人ではなかったかと思い出しましたが、それも半信半疑でありました。穴八幡の処で会った人があなただろうとは夢にも思いませんでした。若しあれがあなたなら私の小説の縮刷を手にしていはしませんでしたか。
私は多忙だから面会日の外は普通の御客には会わない事に極めています。面会日は木曜日ですが、木曜は学校があるからあなたも忙しいでしょう。然し学校が済んでから来る勇気があるなら入らっしゃい。お目にかかりますから 以上
四月十二日 夏目金之助
前田利鎌様

この手紙の少しまえに漱石と利鎌は偶然、早稲田の穴八幡神社で出会った。日頃漱石に親しみを感じていた利鎌は、思い切って挨拶した。九州、熊本の前田であると。その時はほんの短い立ち話で、漱石もそれが卓の弟だと気づかなかった。追いかけるように、利鎌から手紙が届く。先日穴八幡で出会った自分は、前田卓の弟であることや、今は一高生であること、訪問してもよいかという伺いなどが書かれていたのだろう。漱石は思いがけない出会いに驚いて、返事を書いた。若い人に対して隔てなく親切であった漱石は、面会日ならいつでもいらっしゃいという。ただ高校の授業があるだろうから、それがすんでから、と。そして、大勢の弟子や訪問客がいることは分かっているだろうが、それでもよければ勇気を出して、という。

利鎌は木曜会に出かけて卓の近況を漱石に伝えた。漱石がお会いしたいものですと言ったのだろうか、卓は利鎌とともに、早稲田南町7番地の漱石の家を訪ねた。一度ならず、二、三度に及んだ。

「月報」の卓の談話。
「或時先生にお目に懸って、しみじみわたくしの身の上をお話し申し上げますと、『そういう方であったのか、それでは一つ『草枕』も書き直さなければならぬかな』と仰しゃってでございました。本当にわたくしという女が解っていただけたのだろうと存じます」。

この「本当にわたくしという女が解っていただけたのだろうと存じます」という言葉に、卓の万感の思いがあふれている。最初の出会いから遠い年月の間に、卓が生きた波乱に満ちた人生を、漱石は理解してくれた。『草枕』も書き直さなければならぬかな」というのは、一種の社交辞令だったかもしれないが、『草枕』の那美さんだけではない自分の姿を、分かってもらったということだろう。それは単に新しい女、男まさりの奇矯な行動をとる女というだけでなく、どんな障害も恐れず、まっすぐに自立して生きてきたことへの誇りが卓にはあり、それを「解っていただけた」と感じた。

森田草平(記事の後記で「『草枕』も書き直さなければならぬかな」について)
「先生は生前決してお座なりを云う人ではなかった」として、この言葉は卓の思い違いではないかと指摘。もその後に、「しかし又よくよく考えれば」.....「刀自〔卓のこと〕の身の上をしみじみと聞いて、これはもう一つ小説に書く価値があるという意味で、同じ言葉を使われたのであろうとも解せられる」と記す。

いずれにしても、漱石が思わずそういう言葉を発してしまうほどの感動が、その時にあったのだろう。

インタビューでは、『草枕』のモデルとされてきたことでの卓の忸怩たる思いが、長い間鬱積していたことも示している。

上京して民報社に勤めることになったとき、卓は山川信次郎には手紙で知らせたが、漱石には遠慮して知らせなかった。その翌年、『草枕』が出版され、熊本五高から東大に入った顔見知りの学生たちが「小母さんのことが小説になったよ」とわざわざ知らせてくれたので、自分も神楽坂に行って雑誌を買って読んだ。
モデルにされたことは、一時あまり気持ちよく思わなかった。熊本から小天湯の浦までの風景や、父の隠居所(別邸)の様子はほとんどそのままだが、違うところもある。自分は出戻りだったのでいつも地味な着物を着て、決して振袖などは着なかった。男湯に入ったのも、女湯がぬるく夜も遅かったので、誰もいないと思ったからだ。「すると、水蒸気の深々と立ち籠めた奥の方で、お二人がくすくす笑っていらっしゃる声がするじゃありませんか。わたくしはもう吃驚して、そのまま飛び出してしまいました。それだけは事実でございます」と訴えている。

そして、民報社での孫文と黄興の旗争いの時の腰巻きのエピソードを話し、「こんな女でございますから、『草枕』の中でわたくしが『き印』だとされるのは仕方ありませんが、母までが狂人扱いされているのはどうも残念でなりません。わたくしの口から申しては何ですが、母は昔気質のまことに優しい、典型的な日本の女でございまして、これだけは何処までも弁護してやりとうございます」という。
つまり、モデルということで、いろいろと世間に誤解されたことへの釈然としない思いを率直に述べている。そして、そうした奇矯な行勤と取られがちな自分の物怖じしない気性を、漱石は那美に反映させたのだと卓は受け取った。「これを要するに、『草枕』の女主人公は、わたくしの気持ちと申して宜しいか、気性と申して宜しいか、そんなものを取ってお書きになったものとは存じます」との言葉には、「私にはもっとちがう側面もある」という思いがにじむ。
それは、その気性の裏にひそむ、自由や平等への思い、男女同権への希求といった精神性だろう。那美にはそれが反映されていない。彼女は長年その思いを抱いていたのだと思う。だから、この再会のときに中国の革命家たちとの交流のいきさつを話し、やっと自分という人間の全体を漱石に分かってもらえたと思えた。「本当にわたくしという女が解っていただけたのだろうと存じます」の言葉には、その喜びがある。

漱石にとってこの再会はどうだったのか。
このことについて漱石の思いを語るものは残されていない。この再会は、漱石の最晩年のことである。再会から約半年後、この年(大正5年)12月9日に漱石は亡くなる。この頃の漱石の関心は、連載中の小説『明暗』執筆のことや、芥川龍之介や久米正雄ら新しい弟子たちのことであった。体調も悪く、その頃の日記はほぼ毎日、糖尿病のための尿検査のことや食事のことを記している。

この頃、漱石は『草枕』自体にあまり愛着を持っていなかったようだ。
『草枕』をドイツ語に翻訳したいと申し出てきた山田幸三郎への8月9日付の手紙。
「拝復御手紙拝見致しました。『草枕』を独訳なされる事は始め(て)承知致しました。あんなものに興味をもたれ御訳し下さるる段、甚だ有難い仕合せです。私の方から御礼を申上ます。然しあれは外国語などへ翻訳する価値のないものであります。現在の私はあれを四五頁つづけて読む勇気がないのです。始めから御相談があれば無論御断り致す積(つもり)でした。そういう訳ですから雑誌はよろしう御座いますが、単行本にして出版する事丈はよして下さいまし。以上」。

『草枕』だけでなく、同じく翻訳の申し出のあった『二百十日』や『倫敦搭』についても、同じような手紙を書いている。芸術論や人生観を美文調で直接的に披瀝した『草枕』は、晩年の漱石にとって多少面はゆいものになっていたのだろう。

卓が森田草平のインタビューを受けたのは、大正5年の再会からさらに20年後の昭和10年9月のこと。森田はその頃の卓の姿をこう記している。
前田案山子の娘であり、宮崎滔天の義姉で、さらに「私どもの友人で、『宗教的人間』一巻を遺して、世を早うした故前田利鎌君の姉君、本年六十九歳〔数え年〕」、一般に『草枕』の女主人公お那美さんのモデルと云い倣されている方である」と紹介。

そして「刀自〔卓のこと〕は二十有余年来、令弟前田九二四郎氏と共に、目白の奥の雑木林の中の一つ家に、しづかに老いを養っていられる」と。この家は、池袋字大原一三九〇番地(現在の豊島区西池袋)で、宮崎滔天家と広場を隔てて向かい合って建てられていた。滔天と槌の孫にあたる宮崎蕗苳(ふき)さんによれば、「朝、起きて、お早うと言い合えるような距離でした。小さな家に、みんなで住んでいましたよ」という。九二四郎一家や生前の利鎌らが共に暮らした家である。このインタビューの3年後に卓は亡くなるのだが、その最晩年の70歳に手の届こうという彼女が、漱石とのことや『草枕』のことを、まるで昨日のことのように答えている。

(つづく)


2018年5月19日土曜日

皇居東御苑 アジサイが咲き始めている 2018-05-19

5月19日(土)曇り時々晴れ
土曜日だったが出勤。
昼休み、時短モードで皇居散歩。アジサイだけ見て廻った。
まだ5月だけど、皇居東御苑でもアジサイが咲き始めている。





(YouTube)UK Royal Wedding: Gospel Choir sings "Stand by Me" 英国王室の結婚式 でのゴスペルコーラス / John Lennon Stand By Me英語日本語歌詞






(サタデージャーナル動画)「正義が意味をなさない時代」高村薫 ; 「民主主義の大原則を踏みにじるものだから本来なら即、内閣総辞職でしょう。政治を私物化して公文書の改ざんまで引き起こした上に誰も責任をとらない。こんな政治家に重要法案の審議などさせてはならない。これが原理原則です」


関連記事
規範を失った日本社会 真実や正義が意味なさぬ時代に 「政と官のいま」語る 高村薫 / 「正義が価値持たぬ世界」(高村薫 河北新報)





2018年5月18日金曜日

森友文書改ざん、佐川前長官不起訴へ…大阪地検(読売新聞); まずは刑事責任の有無に目先を逸らして、大臣や総理の政治責任の問題を消し去る。次に、組織的な改ざんを佐川一人にかぶせる。そして最後に佐川を不起訴にして、刑事責任もない、と開き直る。 This is Japan / 官僚が行政文書を改ざんした上、国会で堂々と嘘の答弁をしたのを不起訴などというのは、普通の民主主義の国ではあり得ないだろう / 星氏 こういうことがまかり通るのであれば民主主義が成り立たない。民主主義の挑戦とも言える行いですよね。それに対する政治的な責任をきちんとさせるのは国会の役割。佐川さんは刑事訴追を受ける恐れがなくなったら、全部証言をしてもらうというのが筋ですね。     



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加計学園の“悪だくみ”は、もはや疑惑のステージを超えた(文春オンライン); 2015年4月2日、.....県の職員や加計学園の幹部は残り50分をどう過ごしたのか。またその間の15時35分、下村が官邸を訪れ、安倍首相と面談したという。つまり愛媛県や今治市の職員と入れ替わるようにして下村が入館している。.....


一体なんだこれは。これが国会なのか。過労死のご遺族の願いを「事務的に」遮断する審議官。話を聞くどころか、会おうともしない首相。#高度プロフェッショナル制度 / (YouTube)福島みずほ「審議官!あなたが、全国過労死を考える家族の会の声をブロックするのは間違っている!」:5/17 参院・厚労委









「高度プロフェッショナル制度」という「魔法の杖」を病院経営者に渡してはならない(togetter); 来週中にも政府与党が、「働き方改革法案」の強行採決衆院通過を予定している.....。なかでも高度プロフェッショナル制度が勤務医に適用されれば、現状の労基法違反の長時間労働が合法化されます。 医師の長時間労働は、医師の健康だけでなく、医療安全に有害であることは明らかです。 .....











エイプリル・フールでもない、虚構新聞でもない、リアルな日本の官邸の常軌を逸した閣議決定 → 政府:「セクハラ罪」存在せず 答弁書を閣議決定 - 毎日新聞

















2018年5月17日木曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート25 (明治42年)

鎌倉 古我邸
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明治42年
「西洋婦人の地位人生の羨ましく、日支婦人の地位人生の味気無き」
スイス生まれの日系混血児坂井八三郎の回想記「滔天宮崎寅蔵と私」(『祖国』昭和29年5月1日号)。
「明治四十二年六月十七日、母の三回忌を済ませた自分は、其年の十月スイスへ帰ることになり、〔略〕 いよいよ離日と滔天夫人に決別するや、同夫人それから姉上は口を揃え、西洋婦人の地位人生の羨ましく、日支婦人の地位人生の味気無きものなるの事を訴えられた」(『宮崎滔天全集』第5巻、解題)

40歳前後の卓・槌姉妹が、ヨーロッパに帰る友人に向かって、「日支婦人の地位人生の味気なさ」を訴えた。卓も槌も、中国の革命家たちと関わり、彼らの行状を見ていたが故の「日支婦人」である。自分たち自身の体験だけでなく、革命指導者である孫文や黄興らも、当たり前のように第二夫人を持っていた。卓と槌が長いこと抱いて生きてきた無念を端的に示している。
そして、この嘆きは、彼女たちの中に男女同権意識が深く根を下ろしていたことの証しでもある。強い同権意識があったからこそ、現実との摩擦を敏感に感じることになった。そしてそれは、男性民権家によって養われた自由と平等の権利意識だけでなく、女性民権家たちが唱えた男女同権論の影響だった。

明治42年
漱石好みの新橋芸者おえんと卓、森田草平、寺田寅彦
漱石と卓の間には『草枕』の画工と那美のような淡い心の交流があったように思う。男と女として一歩を踏み出すことはおそらくなかったが、心と心は確かに触れあったのではないか。

漱石の次男夏目伸六『父・夏目漱石』の中のエピソード。
漱石は生涯、女道楽や遊蕩には走らなかったが、でも例えばこんな女を好んでいたという。
明治42年頃、漱石は、おえんという当時有名な新橋芸者のブロマイドをわざわざ買ってきて、机上に飾り、ときおり疲れた目を休ませていたという。そしてその顔が、卓の面影と似ていたという。
森田さんのお話では、『草枕』に登場する「志保田の嬢様」那美さんのモデルとなった前田つな子のおもかげと、おえんの容貌との間には、どこか似かよった所があったとかで、後年、寺田寅彦さんが、つな子の若い頃の写真を見て、『あの顔はいい。あれなら先生も気に入ったろう。きっと先生色気があったもんだから、余り口がきけなかったんだね』と云ったそうである」と。

寺田寅彦が、おえんと卓の面影が似ていると指摘し、森田草平がその言葉を伸六に伝えた。

このエピソードは、森田草平『夏目漱石』の「漱石と寺田博士」にも出てくる。
昭和10年10月24日のこと。この頃、森田は、『漱石全集』の「月報」に載せる「言行録」のことで、たびたび寺田宅を訪れていた。寺田が病床についたと聞いて、森田が見舞いに行った日、これが寺田との最後の面談になったのだが、寺田は元気に起きてきて、その月に第1回配本のあった『漱石全集』第4巻と、卓の談話と写真がのった「月報」の「言行録」の話題になった。
寺田寅彦がこう言った。
『あれはインテレクチャルな好い顔で、これなら先生も気に入ったろう。僕もこの顔は好きだ。あの話の中に、山川〔信次郎〕さんはよく話しをなさるが、先生は滅多に口を効かれなかったとあるね。あれは先生、自分が気に入っていたものだから、色気があるので口が利けなかったんだね』と、寺田さんは又顔中皺苦茶にして笑われた」。

また、鏡子夫人『漱石の思い出』には、この旅で無口だった漱石が、実は卓と話し込んだというエピソードもある。
「ある時なんかは何か用があってちょっと来てくれ」と卓が呼ばれて、部屋に行った。卓が食べかけのみかんを持ったまま出向いたところが、「たいへん長い話で、終わって放免になった時には、蜜柑の皮がバリバリするまでにかわいていたなどということもあったと申します」。
このエピソードは、後年卓が鏡子夫人に語ったことである。漱石没後、鏡子夫人と卓は親しくつきあっていた。

漱石は、ウマが合う友人、山川とは風呂に入るのを忘れるほど話し込んだ。漱石は卓もウマが合ったのだと思える。用事を言いつける、あるいは苦情をいう、初めはそんなことだったのかもしれないが、それからそれへと話が弾んだことを、このエピソードは物語っている。

そして卓もまた、ウマの合う漱石に心ひかれた。
上村希美雄「『草枕』の歴史的背景」は、卓が晩年共に暮らした弟九二四郎の息子の妻、花枝さんの言葉を伝えている。「一生のあいだ、ロクな男には出会わなかったが、夏目さんだけは大好きだったよ」と。またこの花枝さんは、漱石と卓の二人だけの写真も見ていると上村に証言したという。傘をさした浴衣姿の夏の写真だとか。

漱石と山川が小天を訪れたあと、彼らと卓はけっこう親しく交流したらしい。「月報」の森田草平のインタビューの中で卓は、ときどき熊本の山川の下宿を訪ねたことや、狩野の下宿の世話をしたことを次のように話している。

「わたくしは故郷におります時分に、山川さんとは極くご懇意に願いまして、ちょくちょく熊本のお宿元へも伺いました」。その時には、いつも襖を開け放ち、あくまで友人としての訪問だったと断っている。また、「その外狩野さんが初めて赴任していらしった時も、わざわざ三里の山越えをして、熊本まで出掛けて下宿のお世話までいたしたような次第ですが、夏目先生のお宅へは、奥様もありましたし、何となく気兼ねで一度もお伺いしたことがありませんでした」。

狩野が熊本に到着したのは、漱石と山川が小天から帰った明治31年正月のことで、漱石は1月7日に狩野を旅館に訪ねている。下宿探しはそれから間もなくのことだろう。
山川とは友人としてのつきあいだったことの強調と、漱石の家に対する気兼ねというこの言葉のニュアンスに、卓の秘めた思いがあるように思える。

(つづく)




【カンヌでもMeToo 82人集結】セクハラ告発運動「MeToo」が、カンヌ映画祭にも広がった。映画業界で働く女性たち82人がレッドカーペットに集結し、映画界の賃金や待遇における男女の格差是正を訴えた。 / ケイトブランシェット「女性は世の中の少数派ではないのに、私たちの働く場は違う。多様性と男女平等の実現を求めたい。一緒に階段を上ろう」











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タックルは「監督の指示」 反則のアメフト日大選手(朝日新聞) コーチから「.....『相手のクオーターバックがケガをして秋の試合に出られなくなったら、こっちの得だろう』.....と念をおされた」 / 日大選手「謝罪を前監督に止められた」 / 反則の日大選手、声を上げて泣いた 記者が見たあの試合(朝日新聞); 〈彼は泣いていた。声を上げて泣いていた〉〈いまはあの涙のわけが、分かる気がする。彼は第二の被害者なのではないだろうか〉 / 日大から関学大への回答全文 アメフト違反行為問題(朝日) ; 笑ってしまうほどの安倍路線。 「監督は何も間違った指示は出していませんが、部員が勝手に誤解して動いてしまったので、怪我をした人にお詫びします」 こんなもの謝罪じゃない。安倍路線が日本を腐らせている。— 山崎 雅弘 / こういう言い逃れを総理大臣が率先垂範して頻用し、メディアがそれを追認してきたことの当然の帰結だと思います。遠からず日本中の組織の不出来な指導者たちがこの言い訳を活用するようになるでしょう。— 内田樹 / 別の日大選手が証言「出たいのならQB壊してこいと」;「壊してこい」とは言ったが「反則タックルしろ」とは言っていない







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森友問題スクープ記者を“左遷” NHK「官邸忖度人事」の衝撃(日刊ゲンダイ); NHKの森友報道をめぐっては、先日、共産党議員の国会事務所に〈森友報道をトップニュースで伝えるな〉と、上層部が部下に指示したとのNHK内部からとみられるタレコミもあった。いったい誰のための公共放送なのか。




“加計理事長のおごり” 首相「注意払わなければいけなかった」(NHK); 立憲民主党の阿部知子氏は「結果的に、国家戦略特区の責任者として気をつけるべき関係もある。お金を払ってもらったのは不注意だったのではないか」と指摘


2018年5月16日水曜日

(動画)✨猫に子守唄を聞かせてみた結果… — 笑笑 動画☆どうぶつ編!