2017年12月4日月曜日

『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』を読む(2) 序章 交差するディアスポラ - 日本人奴隷と改宗ユダヤ人商人の物語(2)

皇居東御苑 二の丸雑木林
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日本人奴隷ガスパール・フェルナンデス・ハボン
1577~1587頃
日本人の奴隷ガスパール・フェルナンデス(日本名は不詳)は豊後(現在の大分県)で1577年に生まれた。
8歳か10歳頃まで両親の下で育ったが、ある日、誘拐されて長崎に連れて行かれた。彼の家族の詳細や、誘拐した人物の素性は不明である。ガスパールをポルトガル商人ルイ・ペレスに売った日本人は、ガスパールを入手した経路を説明しなかった。
ペレスがガスパールを購入した経緯は不明である。ポルトガルの商人たちは自分の子供の遊び相手や従者として子供を買うことがあった。子供の奴隷を購入して従者にするのは、己の富貴と寛大さを周囲に知らしめること、つまり財力の誇示と敬虔なキリスト教徒であることの証と考えられていた。ぺレスはただ単純にガスパールを哀れに思い、助けたいと考えたのかもしれない。ペレスや彼の家族がガスパールに対して虐待をおこなったとする記録や証言はない。

ガスパールの奴隷契約の条件に関わるものに、ルイ・ぺレスの息子たちの証言とガスパール自身の証言がある。
ぺレスの息子たちによると、ガスパールの購入価格は10ないし11ペソであり、一般的な年季契約の奉公人の価格に相当するものであったという。
ガスパール自身の証言によれば、彼の売値は8レアル相当(1ペソ)であった。ガスパールが記憶する価格がきわめて安いのは、彼が受け取った金銭とペレス一家が仲買人に払った金銭に大きな差があったことを意味するのかもしれない。

日本の感覚では、年季奉公は「奴隷契約」ではない。ヨーロッパ人の「期限付き奴隷」に対する考えと中世日本社会の「年季奉公」の慣行に対する意識の間には、相当の隔たりがあったことを前提に、日本における国際的な「奴隷取引」の環境は考察されねばならない。

この契約を合法とするため、ぺレスはイエズス会が運営する長崎の聖パウロ教会へガスパールを連れて行った。併設されるコレジオの院長アントニオ・ロペスは、ガスパールにいくつかの質問をした後、ガスパールがペレスに12年間奉公すると明言された証明書に署名した。当時日本で活動するイエズス会は、身元不詳の少年少女や、明らかに違法に取引された日本人に対しては、容易に年季奉公の証明書を発行しなかった。ロペス神父はこの証明書に署名をする際、この男子は違法に入手された、と添え書きした。

同じ日、ガスパールは洗礼を授けられ、ここでフェルナンデスという姓とガスパールという名を与えられた。姓はルイ・ぺレスの一番下の息子マヌエル・フェルナンデスから取られた。ポルトガル人の代父が新たにキリスト教徒となる使用人や奴隷に自分の姓を授けるのは、慣例であった。

かくして日本人ガスパール・フェルナンデスの人生は大きく変わっていった。ぺレス一家との間には労使の関係だけでなく、時と共に内面的なつながりも芽生えていった。その関係はルイ・ペレスとの間だけでなく、2人の息子アントニオ・ロドリゲスとマヌエル・フェルナンデスとの間でも育まれていった。この一家と過ごすうちに、ガスパールはポルトガル語とスペイン語も流暢に話せるようになった。ルイ・ぺレスはガスパールをわが子同然に扱ったという。

ペレス家の息子たちは、長崎においてその出自(ユダヤ教徒から改宗した新キリスト教徒、いわゆる「コンペルソ(converso)」であること)を隠すため、様々な名を使った。
しかし、こうした努力にもかかわらず、毎年多くのポルトガル人商人がマカオから長崎に来航したため、ぺレスの生活は安全ではなかった。彼がユダヤ人の血統であることは、すぐに町中で知れ渡った。とくに日本人キリスト教徒の間には「ユダヤ人の血」を持つ者に対する嫌悪感があった。キリスト教の暦で肉食が禁止されている期間、とりわけ四旬節の時期に、ペレス一家が肉を食べていたことには彼らも驚いた。怒りのあまりペレスをイエズス会日本準管区長ぺドロ・ゴメスに訴える日本人もいた。ゴメスは表向き、この行為を厳しく批判したが、実はゴメス自身もまたユダヤ系コンペルソであることを、日本人は知らなかった。

コンペルソであることが露見すると、家主の高木アントニオ夫婦はペレスらを追い出そうとした。金曜日と土曜日の肉食はキリスト教では禁じられているにもかかわらず、ペレスはその掟を破ったからである。ペレスは老いと病ゆえ、神父からの許可も得た上で肉を食べたことを説明し、ようやく両者の争いは収まった。実際そうした許可が、当時の長崎のイエズス会コレジオ院長アントニオ・ロペス神父から出されていた。

イエズス会の学院長アントニオ・ロペスは、日本人ガスパール・フェルナンデスに、ペレスに仕えるための期限付き奉公の証明書を発行した人物である。イエズス会士であったアントニオ・ロペスも、当時長崎にいたスペイン人司祭グレゴリオ・デ・セスペデスも、病と老衰ゆえに、四旬節に肉を食する許可をルイ・ペレスに与えたのだが、日本人はそのことに腹を立て彼を告発するなどしたため、新キリスト教徒であるのも大変なことだ、と司祭たちもペレスの置かれた状況に同情した。

ぺレス一家と親しくしていたポルトガル人と日本人によると、彼らは長崎で子供たちにすら「ユダヤ人」と呼ばれながら追いかけ回されたようである。

長崎に定住していたポルトガル人商人ジョルジ・ドゥロイスは、長崎ではユダヤ人の血統は、日本人キリシタンからそのように呼ばれ、その差別が日常的なことであったことを認めている。日本人キリシタンが、普通のキリスト教徒とコンペルソの違いを識別することができたという事実は、開港間もない頃から、長崎にはコンペルソの商人が到来していたことを示している。

1591年8月19日 新たな危険
1591年8月19日、1582年の時点でマラッカのカピタン・モールだったロッケ・デ・メロ・ペレイラが、マカオのカピタン・モールに任命され、長崎にやって来た。彼は、マカオのカピタン・モールとして、マカオ商人を代表してその年の交易を無事に進める職務の他に、ルイ・ペレスを捕らえマカオに連れ戻すというもう一つ重要な使命をおびていた。
マカオに連れ戻した後は、ゴアの異端審問所に送る手筈であった。コンペルソの商人フランシスコ・ロドリゲス・ピントはロッケ・デ・メロ・ぺレイラから、ペレス逮捕の正当な理由は、彼が禁忌を犯して肉食したことがマカオで報告されたことにある、と聞いた。
マカオ在住の日本司教ドン・レオナルド・デ・サやカピタン・モールのロッケ・デ・メロ・ペレイラは、コンペルソ商人の妨害により、この任務を全うするには困難を伴った。

その頃、ぺレス一家は大きな危険にさらされていた。彼がユダヤ人であることを知らない者はなく、容易に異端審問のスケープゴートになりえた。
ポルトガルやコチン、ゴア、マラッカ、マカオの時と同様に、ルイ・ペレスは先手を打って逃亡計画を立て始めた。まず、2人のジャワ人奴隷とカンボジア人奴隷シャロンを売却した。ベンガル人と日本人召使いのガスパール・フェルナンデスはそのまま一家の元に留められた。

1591-1592
高木アントニオ夫妻によると、ぺレスと次男が突然家を訪れ、急いで別れを告げ、その日の夜に平戸へ発ったという。不審に思った夫婦はイエズス会の学院長アントニオ・ロペスにルイ・ぺレスの動向を伝えが、ロペスは、彼らを放っておくよう高木夫妻に言った。このロペスの言動は、ペレス一家が長崎のイエズス会に護られていたことを示唆するものである。イエズス会はカピタン・モール、ロッケ・デ・メロ・ぺレイラの意図を知りつつ、逃亡を黙認した。
1591年のうちに、ペレスと次男は長崎から船で平戸へ向かい、翌1592年、フィリピンへ旅立った。日本人召使いのガスパール・フェルナンデスとベンガル人奴隷パウロ・パンパエールはペレス一家に同行した。

(つづく)




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