2017年12月3日日曜日

『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』を読む(1) 序章 交差するディアスポラ - 日本人奴隷と改宗ユダヤ人商人の物語(1)


『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』(ルシオ・デ・ソウザ〈著〉、岡美穂子〈訳〉 中公叢書)

序章 交差するディアスポラ - 日本人奴隷と改宗ユダヤ人商人の物語

 「日本人奴隷」3人に関する記録が、マカオ、長崎、マニラを転々と暮らした「ユダヤ人」商人一家の異端審問裁判記録中にあった。この商人は、「ユダヤ人」とはいっても国籍はポルトガル人で表面的にはカトリックのキリスト教徒であった。
なぜ「ユダヤ教徒」ポルトガル人が、16世紀の長崎に住み、日本人を奴隷として連れ、アジア各地を転々としていたのか。
「それはアジアにおける人身売買と、多様な文化的アイデンティティを擁したイベリア半島社会の歴史が、複雑かつ密接に絡み合った結果に他ならない。」
(「緒言」より)

1520年代終わり~1530年代初頭
商人ルイ・ペレスは、1520年代終わりから1530年代初頭にボルトガルの都市ヴィゼウで、ユダヤ系の一族に生まれた。ヴィゼウは内陸の田舎町であるが、スペインとポルトガルを結ぶ主要なルートの要所に位置し、ポルトガル建国以来数世紀にわたって、セファルディム系ユダヤ人の重要なコミュニティがあった。町では、ユダヤ人が市場や大規模な定期市で活躍していた。ヴィゼウの異端審問記録に、ペレス一族あるいはルイ・ぺレスの名はなく、ペレスの親族や家業の詳細は不明。

1570年代
1570年代、商人ルイ・ぺレスは2人の子供の父親となった。長男はアントニオ・ロドリゲス(1571年生)、次男はマヌエル・フェルナンデス(1575年生)である。彼らの母親(ペレスの妻)は記録がない。

1580年代初頭
ぺレスは、異端審問所の追跡を逃れて、妻を置いて幼い子供2人だけを連れて、ポルトガルからインドへ旅立った。当時、新キリスト教徒「コンペルソ」が国王の許可を得ずにポルトガル領インドへ行くことは禁止されていたため、他のユダヤ系の人々同様、船長あるいは乗組員を買収して、隠れて船に乗り込んだのであろう。

1580年代初頭
詳細は不明であるが、ゴアに滞在中のルイ・ペレスに何らかの重大事が起きた。史料からは、ゴアの異端審問所の官吏がペレスを捕縛しようとしたことがわかっている。ポルトガル領インドでは、1557年に新キリスト教徒の迫害が始まり、1560年にはゴアに正式な審問所が設置された。

1580年代初頭、ぺレス一家はゴアからマラバル海岸南部の港町コチンへ向かった。
港町コチンは、紀元2世紀以来ユダヤ人が定住していた。コチンのユダヤ人は、マラバル・ユダヤ人(別名黒いユダヤ人)とパラデシ・ユダヤ人(別名白いユダヤ人)に大別された。パラデシ・ユダヤ人の出自は主にオスマン朝トルコで、ホルムズを経由してコチンに流入してきた。ペレスがコチンに着いた頃、コチンには豊かなユダヤ人商人のコミュニティがあり、その活動領域を拡大しつつあった。

1584年~1587年
ゴアとコチンの教会組織の間には緊密なつながりがあり、コチンに移住したぺレスのことはすぐに知られてしまった。ペレスは迅速にさらなる逃避の計画を立て、一家は、コチンからマラッカへ移住した。マラッカはインド方面と中国/日本方面との結節点であった。一家のマラッカ滞在期間は、1584~1587年頃と推測される。
東南アジアへの新たな航海には、ペレス一家に新たにコチンで購入したベンガル人奴隷のパウロ・パンパエールが加わった。
史料では、マラッカ長官が異端審問所の名義の下、ペレスらを逮捕しようとしたとあり、ゴアやコチンに続いて、マラッカでも安全を確保できなかったペレス一家はマカオへ逃避することになった。

1587年
1587年、ペレス一家はマカオに到着した。マカオでは人々は、彼らがユダヤ人かそれに類するものであることを察知し、「いったいあのユダヤ人たちはどういうわけでこの町マカオへやってきたのだ、もうここにはユダヤ人は十分いるのに」と言う者もいた。

同じ年、マカオにカピタン・ジョアン・ゴメス・ファイオが到着した。彼はゴア異端審問所の命令により、マカオにいるすべての新キリスト教徒を逮捕する任務を負っていた。その触書きには、告発者には、新キリスト教徒から没収する財産の半分を与え、残り半分が異端審問所の金庫に入ると明記されていた。この動きは、ポルトガル国王による旧ユダヤ教徒のマラッカ、中国、日本への渡航禁令に連動するものであった。

到着して日も浅く、コミュニティとのつながりが希薄なべレス一家は、マカオの新キリスト教徒コミュニティとマカオ司教区のスケープゴートにされた。
ペレスに対する正式な告発が発効し、一家全員が司教ドン・レオナルド・デ・サの命令で追跡対象となった。最初に捕らえられたのはペレスの長男、アントニオ・ロドリゲスである。司教の命令で逮捕されたアントニオは、当局に対し、条件付き釈放を求めた。また、保証金の支払いにより、マカオと日本間の商業航海に携わることも認められた。その後日本に上陸し、商取引が一段落しても、アントニオは他の商人のようにマカオに戻らず、そのまま長崎に滞在することにした。そして彼がその後二度と、マカオの地を踏むことはなかった。

"次にルイ・ぺレスが追跡されたが、マカオの最有力者カピタン・モール・ジェロニモ・ペレイラがペレスを保護した。マカオのポルトガル人共同体の代表で、随一の権力者ジェロニモ・ペレイラはルイ・ペレスを匿い、日本へ渡航する船に同乗させた。
ルイ・ペレスとカピタン・モール・ジェロニモ・ぺレイラは、ヴィゼウという同郷の出身で旧知の間柄であった。16世紀末、ヴィゼウは人口2,600人の小さな町であった。
カピタン・モール・ジェロニモ・ペレイラの手助けにより、ペレスと次男、ベンガル人奴隷パウロ・パンパエールは密かに日本へ渡った。

1587年
秀吉の伴天連追放令公布

1588年8月16日
彼らは1588年8月16日、長崎へ到着。長崎は南蛮船との交易で活気に溢れていた。1587年の秀吉の伴天連追放令公布後、日本のキリスト教界は苦境にあったが、実際には長崎には多くのイエズス会宣教師が滞在していた。
先に日本に到着していた長男アントニオ・ロドリゲスが彼らを迎えた。アントニオは長崎に住み、フィリピン~日本間の交易にも携わっていた。その後、ペレス一家が再びマカオに戻ることはなかった。
彼らを救ったカピタン・モール・ジェロニモ・ぺレイラは、1589年4月1日にマカオへ戻った後、自ら命を絶った(理由は不明)。この出来事は、マカオの人々に非常に大きな衝撃を与えた。

長崎でのぺレス一家の生活
ぺレス一家は3年間長崎に滞在することになった。
当初は、ジュスタとジュスティーノという2人の日本人キリシタンが家主の貸家に住んだ。滞在期間中、最後の6ヵ月間は長崎の頭人(町民側のまとめ役)の一人、高木勘右衛門了可(タカキ・ルイス)の兄弟である高木アントニオが所有する島原町の借家に住んだ。長男のアントニオ・ロドリゲスはこの家に20~30日滞在したのみで、マニラへと旅立った。

最初に滞在したジュスタとジュスティーノの家では衝突が絶えなかった。堺出身で長崎に移住したこの夫婦は、長崎キリシタンのコミュニティのリーダーであった。彼らは自分たちの財産に、他の人々からも募った資金を合わせ、長崎にミゼリコルディア(慈善院または救貧院)を創設したほど熱心なキリシタンであった。イエズス会士ルイス・フロイスは、ジュスティーノは長崎のミゼリコルディアを整備した後、畿内へ戻り、翌年には大坂の教会とセミナリオ、さらには、堺のイエズス会の住院の整備に携わった、と記す。ジュスタは、長崎の日本人キリシタンのリーダーであった他、コミュニティへの影響力を発揮して、病者、寡婦などのために病院を建設した。

この熱心なカトリック教徒の日本人夫婦が、借家人が敬虔なキリスト教徒ではないと感じて不審に思い、両者の間に摩擦が起こった。ペレスの家には長崎に住む多くの新キリスト教徒が出入りしていた。詳細は不明であるものの、何らかのトラブルのために、ルイ・ぺレスと下の息子は、島原町の高木アントニオ所有の借家へ移動した。

長崎の3人の頭人(後に町年寄)、ペレス家の向かいに住む後藤宗印(ソウイン・トメ)、同じ町内に住む高木了可(タカキ・ルイス)、そして町田宗賀(モロ・ジョアン)は、ペレス一家と親しく交わった。頭人は長崎の町人社会を束ねる代表者的な地位であり、裕福で影響力のある町民の中から選出された。頭人は為政者に対する町の正式な代表者であり、その主な役割は為政者が定めた法を住民が遵守しているかどうか監督することであった。彼らは町民に対して幅広い法的権限を握っていた。頭人の他に、それぞれの町に乙名(おとな)、その下に日行司組頭と呼ばれる世話役がおり、長崎に来て間もない人々を受洗させ、改宗を勧めていた。各町の代表である乙名に加え、その中から複数の町を代表する年行司が選ばれた。

1590年代、長崎の聖パウロ教会で書かれた文書には、「長崎の町の頭」、「市の統治者」、「市の頭」というような表現が見られる。それらは町年寄である4人のキリシタンのことを主に述べていると思われる。それらの史料からは町田宗賀と高木了可が各町の頭人ならびに年行司であった可能性が指摘される。

これら3人のキリシタンの頭人の証言から、富裕な商人や役人が住む、長崎でも重要な地区であった島原町に住めるほど、ペレスは十分な経済力を持っていたことがわかる。この地域には本来は島原地方からの移住者が住んでいた。島原町という地名も、同地区に最初に住んだ人々の出身地名による。島原町は長崎の主要な地域の一つであり、16世紀末にはポルトガル人と日本人の商人のうち、とくに裕福な者が暮らしていた。

同様の史料から、ペレスの人物像や、彼と日本人の少年ガスパール・フェルナンデスとの関係がわかる。たとえば当時、多くのポルトガル大商人が奴隷に対し、身体的な虐待を加えたのに対し、ペレスは自分が主人として扱われるのを不本意に感じていたこと、召使いや奴隷に対する虐待をすることはなかったらしいことなどである。さらに、長崎にいた他の多くのポルトガル人とは異なり、ぺレスも息子らも倫理面で模範的な生活を送っていた。すなわち、遊女を侍らせたり、妾を囲うこともなく、日本人や日本文化に常に敬意を払っていた。こうした彼らの態度ゆえに、日本人もまた、彼らに好感を持っていた。

日本人の召使いガスパール・フェルナンデスは、家事手伝いとして扱われ、商売には携わらなかった。ぺレスの末の息子の従者として、またベンガル人奴隷パウロ・パンパエールの調理補助も担っていた。

ぺレスは他に3人の奴隷(ジャワ人奴隷2人、カンボジア人奴隷1人)を所有していた。ぺレス一家の暮らしは、16世紀末の長崎に住む奴隷の多様性を考える上でも非常に興味深い。長崎において日本人奴隷と中国人奴隷は、インドや東南アジア全地域出身の奴隷たちと共存していた。

(つづく)



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