2018年1月14日日曜日

『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』を読む(12) 第二章 スペイン領中南米地域 Ⅱペルー(1終)

皇居東御苑
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Ⅱ ペルー
リマの住民台帳
日本人がペルーに辿り着いたルートとしては、可能性として二つの航路が考えられる。一つは大西洋経由(ゴアを経てリスボン、そしてそこからブラジルへと渡る航路)、もう一つは太平洋経由(マカオあるいはマニラを経て、さらにアカプルコへと至る航路)である。

書記官ドン・ミゲル・デ・コントレラスがおこなった人口調査から、1607年~13年の期間、リマ市に日本人20人が在住し、生活を営んでいたことがわかっている。
この人口調査では、インディオと呼ばれる人が総計1917人いたが、その内訳にはアメリカ大陸先住民の「インディオ」の他に、「オリエント」出身「インディオ」114人が含まれていた。それは、彼らが「インディアス・オリエンタレス」、すなわち東インドからやってきたことを意味している。当時、「インディアス・オリエンタレス」は、アジア全般を指した。その地域に商業ルートを確立していたのは、スペインではなくポルトガルであったから、彼らは何らかのポルトガルの通商ルートを経て、南米大陸に到着した可能性が高い。当時のリマ市全体の人口の約6%に相当する114人は、さらに三つのカテゴリー「ポルトガルのインディオ」、「中国のインディオ」、「日本のインディオ」に分類される。
「ポルトガルのインディオ」は、ポルトガルが支配したアジア地域、とりわけゴアから来た人々である。ゴアはポルトガル人の奴隷貿易の主要な拠点であり、積み出し港であった。このカテゴリーに分類されるのは、総計56名である。
「中国のインディオ」に関しては、彼らが取引されるのは、マニラ、マカオ、マラッカであり、総計38人名いた。
「日本のインディオ」は、ほとんどが長崎から積み出されたと考えられ、その総計は20人であった。

チーナとインディオ
人口調査の史料では、スペインが支配した他のアメリカ大陸諸地域とは異なる用語の使用が見られる。
当時スペイン人がヨーロッパに限らず、ヌエバ・エスパーニャにいたアジア人に使った一般的な名称はチーナ(中国人)であった。一方、ポルトガル本国では、アジア人を意味するものとして、インディオ(東西インドの先住民)という名称が使われた。
リマの人口調査では、「アジア人」に対するヌエバ・エスパーニャ風の呼び方とポルトガル風の呼び方が混在している。そこからは、アメリカ大陸までこうした人々を遊んだ商人や航路が、ポルトガルに帰属するものであり、そのためにリマの「アジア人」に対する呼称が、融合したものになったと想像できる。

リマの日本人の詳細
ひだ襟職人の男
リマの人口調査で最初に登場する日本人は、ディエゴ・デル・プラド、24歳、リマ市在住歴3年(1610年以降)である。独身、子供なし、財産/不動産は所有せず、職業は、ひだ襟職人とある。彼はリマ政府の書記官の家と同じ通りで働いていたが、彼には、同じ仕事に従事する、名前不詳の別の日本人の同僚がいた。その日本人は18歳で独身、調査時にはリマ市を不在にしていた。ディエゴ・デル・ブラドも彼の同僚も、所有者に関する言及が見当たらないので、自由民であったと考えられる。但し、彼らが最初からそうであった(つまりもともと奴隷ではなかった)とは言い切れない。

妻を身請けしたハボン
3人目の日本人はハボン、26歳、マンガサッテ(ナガサキが訛ったのであろうか)出身。彼は、当時のペルー副王フアン・デ・メンドンサ・エ・ルナ(通称モンテスクラーロス侯爵)と同時期にリマに到着した、と記されている。メソドンサのペルー副王在任期間は1607年12月21日~1615年12月18日なので、ハボンは1607年か翌年あたりにリマ市に到着したと推測できる。彼もまたひだ襟職人であったが、彼は自身の店舗を経営していた。店はサン・アグスティン通り、サン・フグスティン教会の隣にあった。
ハボンはアンドレア・アナ(24歳)と結婚した。彼女はポルトガルのインド(実際には現在のインドネシアのマカッサル)出身で、1603年からリマ市に住んでいたが、ハボンが彼女を奴隷の身から身請けした。彼女を所有していたのはペドロ・テノリーア、身請け価格は300ペソだった。
ハボンが26歳で妻を身請けして家庭を築くほどに、十分な経済力を持っていたのは驚くべきことである。1613年当時、ハボンとアンドレア・アナは結婚したばかりで、まだ子供はいなかった。

日本人の母を持つ混血児
名前は不詳、独身で、ポルトガル領インド出身と記されるが、1598年、マカオ生まれであることが判明している。母は日本人女性フランシスカ・モンテラ、父はパブロ・フェルナンデス、スペイン人であった。1613年の時点では、メキシコからリマに移り住んで間もなかった。フアン・デ・ラ・フエンテの家に居候し、スペイン人ルイ・ディアス・デ・メディーナに仕えていた。

ゴア出身の日本人
ドン・ジョゼッペ・デ・リヴェラは日本人奴隷の夫婦を所有していた。夫はトマス、28歳(1585年生まれ)、妻はマルタ。双方共に日本人であると明記されるが、インドのゴア出身とされている。
「彼はゴアの町の出身で、属性は日本人、トマスという名で、その頬には烙印が押されている。ポルトガル領インド出身の、マルタという名の日本人で、属性はゴア人のインディアと結婚している」。(二人共ゴア出身で、両親のどちらかが日本人であったと考えられる。)

ゴアに居住する日本人は相当数に上った。16世紀末、ポルトガル国王命令として、日本人を奴隷身分から解放することが言い渡されたにもかかわらず、ゴア市議会は、それに従わなかった。彼らが集団で反乱を起こす可能性があったためである。
烙印を持つ日本人奴隷トマスと妻マルタの間には息子ジョゼッペ7歳がいて、この子もまた奴隷であった。

奴隷の烙印
烙印された奴隷はポルトガル人がリマに連れてきた者に多く見られた。リスボンからやってきたポルトガル領インド出身の女性エレナは、頬と顎に焼き印を押されていた。マラカ出身の二人アンドレスとパブロ・エルナンデスは頬に、ペグー出身のフランシスカ・ケサも頬に、ベンガル出身のスザナは顎に、マカオ出身のバルタザール・エルナンデスは頬に、その他多くのポルトガル領インド出身と明記される奴隷の頬に、烙印が押されていた。バルタザール・ロルカというポルトガル領インド出身の奴隷は、12歳で烙印を押されたと証言した。

烙印を押すことには二つの目的があった。
一つは、逃亡奴隷への罰として。烙印によりその人物が奴隷であることを誰もが認識できた。17世紀のブラジルでは、逃亡した奴隷は「フジャン」(逃亡者)として、肩甲骨のあたりに 「F」の烙印が押された。Fは「フジャン」の頭文字であると同時に、ローマ時代から使われる逃亡奴隷に対する代表的な焼き印であった。そのような慣習はポルトガル本国でも見られた。
1588年9月17日、ペドロという名の混血奴隷が、ポルトガル南部のタヴィーラで「逃亡者」として捕らえられたが、その両頬にはすでに烙印が押されていた。つまり、それは彼にとって最初の逃亡ではなかったことを意味する。
二つ目の目的は所有者を明確にすること。奴隷商人や王国の代理人が使う方法で、通常、奴隷が積み出し港を発つ際に押された。この行為は、1人の人間を商品に変えてしまう。その時点で、人間がプロパティ(財産)となる。同時に、奴隷は動物同等の生き物と見なされる。焼き鏝で印を付ける方法は、古代から家畜に対して採られる方法である。

ポルトガルの主要な奴隷取引地でも、この烙印方法は見られた。アメリカ大陸向けアフリカ人奴隷の輸出拠点であったサントメ島商館の「商務員規則」には、1532年、ポルトガル国王ジョアン3世が、アフリカ大陸から運ばれてくる奴隷の体に、焼き鏝で烙印を押すよう命令した。

法令。現時点より、サントメ島へ回送きれる予の奴隷たちに関し、他の奴隷に混ざったり、間違われたりすることのないよう、獲得されたあらゆる奴隷の右腕下部にGuine(ギネ)という烙印を押すこと〔中略〕。印章は金庫に保管し、その鍵の一本は商館長が、もう一本は書記官が管理すること。そしてその印章は、必要な時に商館長の立ち会いのもと、金庫から取り出されること。

この慣行はゴアでもおこなわれていた。ポルトガル国王ドン・ジョアン3世名義の象の世話係であったインド人奴隷は、両頬に十字架の印が押されていたという。ゴアでは、奴隷が熱せられた鉄で罰として殴打される習慣があった。その結果、奴隷は死亡するか、生涯、障害を背負う身となった。ポルトガル貴族が所有する奴隷たちも、多くが顔に烙印を押されていた。国王ジョアン3世の弟で王位継承権第一位であったドン・ルイスが所有する白人奴隷には、主人の名前が顔に刻まれていた。そのドン・ルイスの私生児、ドン・アントニオ(プリオール・ド・クラト、スペインのフェリペ2世とポルトガル王位を争い敗北)の奴隷アントニオの頬にも所有者の名が烙印されていた。

奴隷の購入契約書に、奴隷に対する焼き印が指示されていることもあった。あるポルトガル人の未亡人は、1574年、商人ペドロ・ヌーネスに対し13~14歳のアフリカ人女子奴隷を注文した。その際奴隷の右肩甲骨のあたりに焼き印を押すよう指示した。
アンゴラーブラジル間の奴隷売買に携わる商人ガスパール・オーメン、マヌエル・オーメンの兄弟は、1594年、奴隷にMとOの頭文字の印を焼き付けた。奴隷商人フランシスコ・デ・ラ・カレーラとベルナルディーノ・デ・セヴァーリョは、ディオゴ・デ・ラ・カレーラ名義で、アンゴラからカルタヘナ・デ・インディアス(コロンビア)まで奴隷を運び、それぞれの名前の烙印を押した。

日本人奴隷の属性
住民台帳に記載されている残りの日本人は、調査官が訪ねた際、主人の家にいなかったため詳細はほとんど不明。スペイン人女性ドナ・アナ・メシアの家には、日本人女性2人(イザベルとマダレナ)がいたことがわかっている。エンカルナシオン通りにあるディエゴ・デ・アヤラの家には、日本人女性アントニアが仕えていたとの記載がある。
他の日本人については、詳細は不明。

日本人全体に関するおおまかな属性についての記述は以下の通り。日本人は総計20名、うち男性は9名(既婚者4名、独身4名、未成年1人)で女性は11名(既婚者4名、独身者7名)であった。独身女性が多いのは、彼女たちがかなり若年であったことを意味するかもしれない。




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