2018年1月6日土曜日

『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』を読む(10) 第二章 スペイン領中南米地域 Ⅰメキシコ(1)

鎌倉 浄智寺
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第二章  スペイン領中南米地域
I  メキシコ
ガレオン・デ・マニラ
1565年、ガレオン・デ・マニラ(ナオ・デ・チーナ、「中国からの船」)が結ぶ、マニラーアカプルコ間航路が開通した。日本人は他のアジア人(とりわけフィリピン人)と比べると、やや遅れてアメリカ大陸へやってきた。1580年代にはメキシコに日本人がいたと思われるが、アカプルコ港に上陸するアジアの自由民と奴隷が体系的に記録され始めたのは、王室国庫金庫(カハ・デ・レアル・アシエンダ、通称カハ・デ・アカプルコ)が設立された1590年以降なので、それ以前の記録を辿るのは容易ではない。

1593年、スペイン国王はガレオン貿易の航海と環太平洋の商取引は、個人のものではなく、スペイン王国に属するものであると定めた。また、その航路は、艦隊長(カピタン)と海軍大将(アルミランテ)がそれぞれ指揮するガレオン船2隻(カビターナ、アルミランタ)が就航するものとなった。これらのガレオン船は、オランダやイギリスの艦隊の攻撃を受けたので、「コンボイ・デ・ロス・ガレオネス」(ガレオン船の傭兵団)と呼ばれる護衛艦隊が編成されることになった。
ガレオン船は最終目的地アカプルコ到着前に、補給のためにしばしばチアメトラ、ナビグッド、コルマといった港に寄港することが多かった。また、この寄港によりヌエバ・エスパーニャの副王政府に対し、船が間もなくアカプルコに到着することを知らされた。

1584年、イスミキルパンの鉱山主のアロンソ・デ・オニャーテからフィリピンのマニラ総督府に宛てて、3000~4000のアフリカ人、中国人、日本人、ジャワ人の奴隷を入手したいとに依頼が届いた。アジア人奴隷は家事労働に最適と信じられていた一方、アフリカ系黒人奴隷はメキシコの鉱山で重労働を担わされた。結局、この願いはマニラ当局に受け入れられなかったが、フィリピン経由で、アメリカ大陸の鉱山地帯へ、中国人、日本人、ジャワ人、アフリカ人などが運ばれるルートがあったことが確認できる。

1587年、マニラ発アカプルコ行きのガレオン船サンタ・アナ号(積載量600t)がカリフォルニアの海岸で、イギリスの探検家トーマス・キャベンディッシュ率いるデザイアー号に襲われた、サンタ・アナ号の乗組員であった日本人2人(クリストバン20歳とコスメ17歳の兄弟)が捕らわれた。
彼らはその後、キャベンディッシュの配下の船員となり、太平洋を渡って、東南アジアの港を探検し、インド洋経由で、喜望峰を回ってヨーロッパへ辿り着いた。その後、しばらくイギリス国内に滞在した後、1591年、2度目のキャベンディッシュの遠征にも参加したが、その遠征は、南米海域でのポルトガル人との戦闘、嵐による遭難などに見舞われ、船員のほとんどが死亡したと言われており、この2人もその航海中に死亡したものと思われる。

メキシコ在住の日本人(特殊な事情により記録が残った人々)
①実際にメキシコに居住していた日本人に関する記録で最も早い時期のものはトメ・パルデス(序章に前出)に関する記録である。トメは1577年に長崎に生まれた。奴隷として長崎在住のポルトガル大商人フランシスコ・ロドリゲス・ピントに売られた。ピントは、改宗キリスト教徒(元ユダヤ教徒)であったので、ぺレス一家と関わりがあり、その異端審問関係史料に彼らの証言が含まれている。ピントは、トメを長崎で転売し、おそらくマニラへ連れて行かれたトメは、スペイン人アントニオ・アルソラの所有となった。アルソラは1596年、マニラ・ガレオンの船長として、アカプルコへ渡航し、トメはそれに同行して、その後メキシコシティに居住した。1597年には3人の日本人、ガスパール・フェルナンデス、ミゲル・ジェロニモ、ヴエントゥーラがメキシコに到着した(序章)。

②1604年、メキシコ大司教への結婚許可願いに関する史料から、この年、ミンという名の日本人奴隷が、おそらくゴア出身(ポルトガルのインド人と記される)の奴隷ウルスラとの結婚を願い出たことが判明している。その申請結果等については、不明。

③17世紀初頭(年月日不明)、洗礼名カタリーナ・バスチードスという日本人女性がメキシコシティに到着し、その後、ポルトガル大商人フランシスコ・レイタンと結婚し、結婚を機に自由民となった。しかし、アジア人の元奴隷であることで、隣人からひどい差別的扱いを受けた。カタリーナは自身を守るため、自分は元奴隷ではあるが、生まれた時は自由民であったので、人々が自分を差別するのは不当であるとして、裁判所に訴えた。

④ドミンゴ・ロペス・ハボンの例(アメリカ大陸にやってきた正確な時期は不明);彼はメキシコに住み、ドミニコ会修道士ペドロ・エルナンデスに仕えていた。ペドロ・エルナンデスは、この奴隷の使用に関し、ヌエバ・エスパーニャ副王からの許可を得ていが、許可証の内容(終身奴隷なのか期限付きの契約なのか)は不明。
1607年10月17日付で、セピーリヤ市に提出された同修道士からの請願書には、ドミンゴ・ロペス・ハボンが拘留中、とある。詳細は不明だが、場所はセピーリャのインド商務院であったと推測できる。拘留の理由も不明であるが、二つの可能性が考えられる。一つはこの日本人が、有効な許可証を得ずにアメリカ大陸からスペインへ渡ったこと。二つ目は、スペイン国王が承認した、日本人の奴隷輸出に関する法的な取り締まりと直接関係している可能性が高いと思われる。インド商務院に提出された請願書からは、修道士がドミンゴ・ロペスの解放と副王が承認した許可証の返却を求めていることがわかる。
結果、ドミンゴ・ロペス・ハボンは解放された。その後、1612年6月4日付で、国王フェリペ3世は、ペドロ・エルナンデスにフィリピン渡航に関する特別許可を与えた。ドミンゴ・ロペス・ハボンはフィリピンから日本まで戻ろうとしていたようである。


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