2018年5月10日木曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート23 (明治40年)

皇居東御苑
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明治40年~42年
「民報社ノ首謀者ハ日本人側ハ宮崎寅蔵、前田卓子(女子).....」(「民報関係雑纂」)
外務省外交質料に、明治40年10月~42年12月の『民報』関係の文書をまとめた「民報関係雑纂」がある。内容は、清国政府からの『民報』取締り要請と、それに対し我が国の法律で取締りが可能かどうかを検討することから始まる。そして、41年10月~12月の『民報』発行停止命令とその裁判に関する資料、発行停止が留学生に与えた影響、中国本土での反応の報告、その間に民報社で相ついだ毒茶事件と放火事件に関する報告、その後民報社が事務所を移転するまで。
つまり、中国同盟会機関誌『民報』が廃刊に追い込まれたことを中心に、その変遷を辿ったもの。

前田卓に関する記事は、毒茶・放火事件に関して出てくる。
事件の顛末と民報社について、反革命派と思われる中国人が語った「清国人の談話」(外務省外交資料「民報関係雑纂」乙秘第1561号、明治41年12月17日)があり、その中に、「民報社ノ首謀者ハ日本人側ハ宮崎寅蔵、前田卓子(女子)、清国側ハ黄興、宋教仁、呉崑、呂復、鄧誠意等ニシテ・・・」とある。民報社をリードする首謀者として、卓の名前が滔天とともに挙げられている。

この「清国人」は、民報社など中国の革命家内部に潜入したスパイと思われる。
証言内容は、衣食に窮した革命党員らが留学生らをだまして生活の糧を得ているなど、一貫して革命家に対する悪意に満ちている。
孫文についても、41年4月の雲南省の武装蜂起の際にはシンガポールにいたことを指摘して、「怯儒ナルコ斯ノ如シ」と断定している。明らかに革命家に敵対する立場の人間の言動だ。そして同盟会内部で誰と誰が対立しているかということや、そのあげくなぐり合う事件があったことなども事細かく述べており、スパイが彼らのすぐ近くにいたことを思わせる。そうした人間が、民報社の実態を分析して、上記のように、卓を首謀者と証言しているのである。「民報社のおばさん」の実体は、これにつきるだろう。

明治40年
孫文の日本追放
清国政府は、孫文の日本からの追放と、革命派の精神的支柱である『民報』の取り締りを日本政府に要請。日本政府は孫文に5千円の旅費を贈って、日本を脱出するよう勧告した。単純に「追放」できなかったあたりに、当時の孫文と中国同盟会の影響力の大きさを示している。孫文には日本人の支援者からも1万円の餞別が贈られ、明治40年3月4日にシンガポールに向けて出発した。

同盟会の本拠地は、日本とシンガポールの二つに分かれることになった。さらにこのお金をめぐって、同盟会内では孫文批判と不信がつのった。孫文は、民報社の維持費用として2千円しか残さなかった。「旗争い」で見た黄興や宋教仁らと孫文との軋轢には、この問題も関係していた。民報編集長の章炳麟は孫文を激しく批判した。
同盟会脱退まで考えた黄興がこの年の正月早々に帰国したように、革命家と留学生たちは「革命方略」を実践するため次々と帰国した。意見の違いはあっても、互いに革命のためにと飲み込んで、力を合わせていった。
40年1月中旬の宋教仁の日記には、日本人から武器や火薬製造技術を提供してもらうことについて、孫文や滔天と協議したことをうかがわせる記事がある。風雲は急を告げていた。いずれも失敗に終わっているものの、この年だけで広東と広西省で計4回の武装蜂起が起こっている。
宋教仁も、3月23日、満州方面の馬賊工作のため日本を脱出する。

明治40年
小春日和 大森、池上梅園にて
宋教仁が満州工作のため帰国する前の明治40年3月7日、宋、卓、何天烱とで大森の池上梅園に行く。
「梅園は山の前側にあり、周囲約半里、園内にはざっと数千株の梅が植えられすべていま満開であった」。
「高く山上から臨むと、見晴らしはひじょうにすぼらしく大森平野、東京湾みなそっくりそのままに一望できた」。
観梅のあと3人は、明保楼という旅館に入り、食事をし、温泉風呂に入ってしばらく休んだあと、人力車で帰ろうとする。その途中、追いかけてきたであろう黄興らとばったり会い、再び旅館に引き返して、もう一度たっぷり梅を楽しみ、一泊して翌日夕方帰ったという。

黄興の長男一欧によると、そのとき黄興が梅の絵を描いて卓に贈ったという。
「先君(黄興)は平生絵を描くのは巧みでなく、まして絵を描いて人に与えたことはない。唯一の例外は、一幅の梅を描いて宮崎寅蔵夫人の姉前田卓子に贈ったことである」(上村希美雄『宮崎兄弟伝 アジア編下』)。何天烱が賛をしたためた。

宋教仁は、3月23日、民報社で別れを告げ新橋から神戸に向かって出発した。
『宋教仁の日記』は、この満州行きの途中で終わっている。満州では、馬賊工作を持ちかけた日本人同行者の密告により、工作が露見し、同志1人が逮捕され、宋はからくも逃れ、8月ごろに日本に帰ってくる。もはや日記を書いている余地はなかった。

(つづく)




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