2018年5月15日火曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート24 (明治41年)

皇居東御苑
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明治41年
『民報』の発行停止
明治41年10月19日、日本政府は『民報』第27号を、「新聞紙条例第三十三条違反」として、「発売頒布ヲ停止シ及ビ之ヲ差押エ」た(外交資料「民報関係雑纂」乙秘第1074号、明治41年10月22日)。理由は「発行所の変更を届けなかった」こと。
『民報』の発行停止は、思想の拠り所を失わせただけでなく、収入面でも打撃になった。
編集長章炳麟がその不当性を裁判で訴えた。宋教仁も通訳として裁判に立ち会い、法律論を駆使して闘ったが、罰金刑50円が確定し、『民報』は事実上の廃刊に追い込まれた。彼らは罰金の捻出にも苦労し、納付期日に間に合わず、編集長の章は一時入獄した。

この問題には、清朝考証学の学者である章炳麟が、民報社で開いていた国学講習会に通っていた留学生の魯迅も関わっていた。

魯迅の弟周作人の『魯迅の故家』。
「民報社に通って聴講していたときに、『民報』誌が日本政府によって発行を禁止された。原因はもちろん清国政府の請求によるものだが、表面の理由は出版法違犯ということであった。〔略〕『民報』は同盟会の機関誌といっても、孫中山派はずっと前から関係していなかったので、この罰金も章太炎〔章炳麟のこと〕自身が支払わなければならなかった。納付期限をすぎても支払えないと、一円一日の計算で懲役に服さなければならない。期限ぎりぎりの日になって、龔未生(宝銓)が魯迅を訪ねて相談し、結局さらに許寿裳に頼み、『支那経済全書』の訳本の印刷費の一部を流用してもらって、やっと急場をしのいだ。この事件のために、魯迅は孫文派の同盟会のやり方に非常な不満を感じた」(武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す』)。

「新聞紙条例違反」を「出版法違反」としたり、罰金額なども違っているが、この事件に対する魯迅の関わりとその時の思いはこの通りだったろう。ここでも孫文問題が顔を出している。民報社の周囲には、このような空気が流れていた。

明治41年
毒茶・放火事件
『民報』発行禁止の頃、「毒茶・放火事件」が相ついで起こった。
警視庁の「革命党毒殺未遂事件顛末」(「民報関係雑纂」乙秘第1528号、明治41年12月14日)。
まず11月13日の放火事件。深夜11時半頃から翌日午前3時の間、廊下の側の押し入れの襖戸が燃えた。「少許燃焦(すこしばかりねんしょう)」とある。
そして11月26日と30日、お茶の中に毒物が混入した毒茶事件が起こる。26日には下女林ス工が、30日には留学生が、それぞれ土瓶の冷茶を飲み、鼻をつく異臭と刺激で嘔吐した。どちらもすぐに近所の医師に連れて行ったが、ス工の場合は医師が不在だったためそのまま帰り、留学生は手当てを受けた。両者とも大事にはならずに回復した。土瓶の冷茶と嘔吐物からはニコチンが検出された。
容疑者として、元革命党員でその頃は清朝のスパイとして暗躍していた汪公権が疑われた。26日に民報社を訪れており、台所に2回入る姿が目撃されている。汪は、12月1日に上海に向け出発しており、30日には彼は来訪していないので、彼に近い何人かの人物が疑われた。
警視庁は、彼らや黄興、宋教仁など民報関係者もふくめ20名近くを取り調べるが、「一人トシテ犯跡ヲ認ムル能ハザルヲ以テ皆之ヲ釈放」する。また民報社からも、疑われた人物たちの止宿先からも、ニコチンなどの証拠物件は発見されなかった。

警視庁の結論。
「革命党ノ内情ハ、其活動資本ナキノミナラズ、生活資本ニスラ今ヤ窮乏ヲ訴フルノ窮底ニアリ」とし、しかも『民報』の裁判でさらに追いつめられた状況にある。そこで黄興らは、留学生の同情に訴えて、資金集めを考えざるをえない。
「留学生ノ同情ヲ繋グニハ、清国政府及日本政府ガ革命党ヲ圧迫スルヲ証拠立テザルベカラズ。故ニ此事件ノ発生以来、彼等ハ発出ノ原因ガ日本政府ノ圧迫ノ結果及清国政府及公使館ノ探偵ノ所為ニアリト声言スルニ至レルナリ」。
だから「故ニ本件〔毒茶事件〕又ハ事前事実ノ放火ノ如キハ、革命党内輪ノ魂胆ニシテ、外部ヨリノ所為ニアラズト云ウモノアルモ、強チ無稽ナル憶測ニアラズト信ジサルヲ得ズ」とする。

つまり、お金に窮したあげくの内部犯行であり、狂言だったという結論である。これらは捜査報告書であると同時に、同盟会と民報社の状況分析にもなっており、この結論がさまざまな情報から導き出されたことが分かる。
確かに、毒茶事件も放火事件も被害は少なかった。
また、様々なところから寄せられる資金は、孫文に集中するから、前年3月に孫文が去ったあと、東京の同盟会は窮乏に陥っていた。満州に渡る宋教仁は、渡航資金を得るため銀行に行って借金を申し込んでいるし、その後も、さまざまな人に借金をしている。もともとの活動資金の不足と『民報』発禁処分による経済的打撃とで、彼らは追いつめられていた。

しかし、内部の狂言説は疑わしい。
こうした結論が出る以前、11月30日の事件発生直後の「毒殺未遂事件ニ就テ」(「民報関係雑纂」甲秘第1160号、明治41年12月1日)には、その日、勝手口から入ろうとした清国人がいたことや、他にも1人の清国人が竹垣の側から邸内をのぞいていたこと、そして、その前の26日の件では、汪公権が立ち去った直後に林スエが茶を飲んだ事などを報告している。
警視庁「顛末書」の中にも、30日に台所に「膝行スル者」がいたが、この人物は「牛込署ヨリ差入レアリタル密行員ニシテ真実怪シムモノニアラズ」などの記載もある。
日本と清国のスパイが、かなり頻繁に民報社周辺を横行してしたことはまちがいない。当初は警視庁も汪らの犯行の線で捜査したが、その後内部犯行説に転じたことが窺える。「清国人ノ談話」を受け入れて、事件の収拾をはかった。

明治41年
卓の母の死
この頃の卓の動静を知る手がかりに、卓の異母弟前田利鎌の年譜がある。末弟利鎌は後に卓の養子になり、哲学者としての道を歩み始めるが、昭和6年に33歳の若さで没する。その利鎌の遺稿を集めて出版された『宗教的人間』の巻末に、彼の年譜があり、その明治40年(正しくは41年)の項に、「十二月、母死す。姉卓子家政整理に帰国。其間小石川区第六天町の宮崎滔天家にあづけらる」とある。利鎌の生母林はなは昭和4年に亡くなっており、この時の母は卓の生母であるキヨのことである。

母の死の前、異母弟寛之助と利鎌、そしてその生母林はなの3人を東京に呼び寄せるため、卓は民報社への住み込みを止め、すぐ近くの飯田町に家を借りて通っていた。利鎌年譜の明治40年の項に、「一月、生母、兄覚之助と共に上京。姉卓子の飯田町の家に同居。富士見小学校に転ず」とある。父案山子を亡くし、熊本の地で寄る辺なく暮らすこの親子3人を、卓は放っておけなかった。

この時期、卓たち姉弟は、与えられた遺産を次々と中国革命につぎ込んでいた。
妹・槌の「亡夫滔天回顧録」によると、滔天・槌夫婦が小石川区第六天町に引っ越してからのこと(41年夏以降)、「何天烱氏が武器の払い下げを計画し、私も里方にあった骨董品の全部を処分して、その費用に当てたのもこの時でした」。「この時」というのは、香港に武器を密輸しようとして、陸揚げ直前に摘発された「幸運丸事件」のことである。この船には九二四郎も乗っていた。槌は和歌にうたう。「思ひのみ今はのこさぬかたみかな父母の家宝も今日をかきりに」。この頃、槌の取り分はほとんど消えた。

そして母没後、別邸もふくめた最終的な整理を卓は行う。利鎌の年譜は、卓の帰国に続けてこう書く。「この母の死を期として、故郷の一家ついに離散。二児の養育費として、少許(すこしばかり)の書画珍奇をのこすのみ。前田一家のこの悲運にかてて加えて、宮崎滔天又支那革命成らず、貧窮の極に達す。姉卓子の帰国中、幼少利鎌等の教育費にあつべかりしそれらの珍器を吉原角海老楼に質入れして、わずかに運動の資金に代うる等の悲惨事あり」。
母の死後、もう一つの別邸も売り払った。熊本にはもう前田家の家はない。わずかに残った書画骨董は、利鎌と覚之助の養育費に当てるため、とりあえず小石川の滔天家に送った。ところが滔天はそれをも売り払ったのだ。これには卓は怒ったのではないか。

明治41年
民報社の実質的解散
「民報社改称移転ノ件」(「民報関係雑纂」乙秘第1595号、明治41年12月18日)。民報社が「国学講習会」と改称し、牛込区新小川町2丁目8番地から小石川区小日向台町2丁目26番地に移転のため、「昨夜来荷物運搬中ナリ」という内報記録がある。『民報』編集長で裁判に負けて入獄した章炳麟が主催し、魯迅も通っていた国学講習会が、日本の同盟会の中心になった。
卓が生母キヨの葬儀をおえて東京に戻ったころ、民報社は姿を消していた。槌の回顧録によれば、「民報社の解散後は、支那革命の運動は地下に潜んだ形に」なったという。卓の「民報社の首謀者の一人」としての役割は、一応この時期で終わった。

(つづく)




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